「ミゲル・デ・セルバンテス」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Dexbot (会話 | 投稿記録)
m Removing Link FA template (handled by wikidata) - The interwiki article is not featured
編集の要約なし
34行目:
その後なんとか徴税吏の仕事に就くが、税金を預けておいた[[銀行]]が[[破産]]、併せて負債として30倍の追徴金を背負わされ、未納金につき[[1597年]]に投獄される。その[[セビーリャ]]監獄の中には、[[ピカレスク小説]]『グスマン・デ・アルファラーチェ』(1559年)の作者[[マテオ・アレマン]]もいたという。セルバンテスは『[[ドン・キホーテ]]』の序文で、牢獄において構想したことをほのめかしている。
 
そして[[1605年]]、マドリードにて『[[ドン・キホーテ|ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ]]』が出版された。『ドン・キホーテ』は出版されるやいなやたちまち大評判となり、同年中に6版が重ねられた。<ref>『スペイン文化事典』423頁、川成洋・坂東省次編(丸善、2011年)</ref>『ドン・キホーテ』の成功にもかかわらず、[[版権]]を安く売り渡していたため、生活面での向上は得られなかったが、その後も創作活動は展開され、有名なものに『模範小説集』([[1613年]])、『ドン・キホーテ 後編』([[1615年]])、遺作『ペルシーレスとシヒスムンダの苦難』([[1617年]])などを世に送り出した。1616年、69歳でその波瀾に満ちた人生を終えた。彼が息を引き取った最後の借家はマドリード中心部の2つの通りが交わる地点にあり、片方の通りの名は彼の名を取りセルバンテス通りと名付けられている<ref>「マドリード文豪地区」髙橋博幸/「マドリードとカスティーリャを知るための60章」(エリア・スタディーズ131) p244 川成洋・下山静香編著 明石書店 2014年6月30日初版第1刷</ref>
 
[[イギリス]]の[[ウィリアム・シェイクスピア|シェークスピア]]と死亡した日が同じであるとされることが多いが、当時はヨーロッパ大陸とブリテン島とで異なる[[暦]]を使用しており、実際には同じ日ではない。これは、1582年に[[ローマ教皇]]が[[ユリウス暦]]から[[グレゴリウス暦]]へ暦の変更を決定し、大陸の[[カトリック教会|カトリック]]や[[プロテスタント]]の国々が順次変えていったのに対し、当時のイギリスは、カトリック教会の権威が及ばない[[イギリス国教会]]が優勢だったために新しいグレゴリウス暦を受け入れることが遅れたからである。