「穴熊囲い」の版間の差分

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[[2001年]]2月22日[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]第1小法廷は、同件を上告審として受理しないことを決定した(上告棄却)。この棄却決定により、二審の東京高裁判決が確定することとなった。
 
なお、史実では、[[1968年]]の第27期[[名人戦_(将棋)|名人戦]](大山4-升田0)第2局で先手番の[[升田幸三|升田幸三実力制第四代名人]]が居飛車穴熊のコンセプト<ref>当時の棋戦解説では「珍しい左穴熊」と記された。</ref><ref>棋譜は週刊将棋編「不滅の名勝負100」(毎日コミュニケーションズ)で確認できる。</ref>を後手番の[[大山康晴|大山康晴十五世名人]]の四間飛車相手に実践していた。しかし、実際に居飛車穴熊を現代戦法として再編・体系づけてプロ棋士の間に大流行させて本格的な対振り飛車攻略として定着させたのは、紛れも無く[[田中寅彦]]の功績である。[[小倉久史]]著下町流三間飛車戦法の一節によれば、当人のコメントとして「訴えられたから戦った」そうである。また、田中以前には[[西村一義]]が居飛車穴熊戦法を何度も実戦で採用しており、田中はこの西村にも少なからず影響を受けている。
 
== 参考文献 ==