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'''四カ年計画'''(よんかねんけいかく、Vierjahresplan)は、[[ナチス・ドイツ]]において計画・実行された[[計画経済|経済計画]]。[[1933年]]の第一次四カ年計画は失業の解消とドイツの富国を約したスローガン的なものだったが、[[1936年]]の第二次四カ年計画はドイツの国際的自主性の確保とまたそれに伴う戦争に備えて、特に食料と原料を外国に頼ることのない[[自給自足]]の経済活動(アウタルキー)の確立を目指した。ナチス政権のNo.2である[[ヘルマン・ゲーリング]]が計画の全権({{lang-de|Beauftragter für den Vierjahresplan}})となり、計画の実行を行う四カ年計画庁は国家省庁として大きな権力を握った。四カ年計画しかし軍備充実を図る途上最中1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、計画はさらに四年間の延長が行わることになったが、次第に軍需省などに主導権を奪われていった。
 
== 第一次四カ年計画 ==
1933年1月30日に[[ドイツの首相|首相]]に任命され政権を取った[[アドルフ・ヒトラー]]は首相就任2月10日の演説で「ドイツ国民よ、我々に4年の歳月を与えよ、しかる後、我々に審判を下せ!」と訴えた。ヒトラーは「ドイツは今後、四年間に失業者が600万人から100万人に減少するであろう。全国民所得は140億マルクから560億マルクに増加するであろう。自動車生産は4万5000台から25万台に増加するであろう。ドイツは人類始まって以来の空前の道路を持つことになるであろう。[[中産階級]]及び貿易は未曽有の好景気になるであろう。幾百万の家屋を有する巨大新家族集団地が帝国各地に出現するであろう。ドイツは一人の[[ユダヤ人]]の力も借りずして知的覚醒を経験するであろう。ドイツの新聞はドイツのためにのみ活動するようになるであろう。」といった公約をドイツ国民に行った。これをヒトラーは2月1日に国民へのラジオ放送で「四カ年計画」と呼んだ<ref name="ヒトラー全記録324">『ヒトラー全記録 <small>20645日の軌跡</small>』324ページ</ref>。
 
この宣言どおり、ドイツの失業率は1937年には完全雇用が達成される状態となり{{sfn|川瀬泰史|2005|p=25}}、自動車生産台数は1936年の段階で30万台を超えていた{{sfn|川瀬泰史|2005|p=36}}。ただしこの時期、ドイツの経済運営において最も影響力を持っていたのは経済大臣兼[[ライヒスバンク]]総裁の[[ヒャルマル・シャハト]]であった{{sfn|村上和光|2006|p=63}}{{sfn|工藤章|1980|pp=62}}。シャハトの方針は戦争準備よりもアウタルキーよりも対米協調による平和的アウタルキーであり、急激な軍拡を怖れていた{{sfn|村上和光|2006|p=63}}。しかしこの方針は「あらゆる公的な雇用創出措置助成は、ドイツ民族の再武装化にとって必要か否かという観点から判断されるべきであり、この考えが、何時でも何処でも、中心にされねばならない」「すべてを国防軍へということが、今後4~5年間の至上原則であるべきだ」と考えるヒトラーとは相容れないものであった{{sfn|川瀬泰史|2005|pp=30}}。また1936年の夏頃には外貨不足と食糧不足によって、ドイツ経済は失速する危機を迎えていた{{sfn|中村一浩|1994|pp=5}}。
 
== 第二次四カ年計画 ==
これに続くものとして1936年8月ヒトラーは第二次四カ年計画の覚書の作成を開始した。そして1936年9月9日の[[ニュルンベルク党大会]]において第二次四カ年計画が発表された。こちらが一般に四カ年計画と呼ばれるものである。四カ年計画覚書の中でヒトラーは「経済の課題はドイツ民族が自己主張できるようにすること」「ドイツ経済は以降4年間のうちに戦争に耐えうる経済になっていなければならない」「[[ドイツ国防軍]]は四年間で戦場に投入可能なレベルになっていなければならない」と書いている。[[代替財]]・原料生産・貿易統制を推進して自給自足経済の確立を目指す内容そのものであった<ref name="総統国家119">『総統国家―ナチスの支配 1933―1945年』119ページ</ref>。
 
ヒトラーはこの四カ年計画の全権責任者には[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ党]]および政府のNo.2である[[ヘルマン・ゲーリング]]を据えた。ゲーリングは12月17日の演説で「政治の必要に応じて採算を無視した生産を行わねばならない。どのくらい費用がかかってもかまわない。戦争に勝利すれば十分に償いがつくからだ。」と語り<ref name="murase366">村瀬、366p</ref>、ドイツの外国資源への依存を減らし、自給自足経済の確立を急いだ。以降、1936年から1942年にかけて、ゲーリングはドイツ経済の独裁者とも言える存在になった{{sfn|工藤章|1980|pp=62}}。
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四カ年計画庁による設備投資はドイツ全体の設備投資の50%に達し、1936年から1942年にかけて同様の状態であった{{sfn|工藤章|1980|pp=63}}。このため非採算的な[[人造石油]]、[[人造繊維]]、[[合成ゴム]]の生産拡充が行われ<ref name="murase366"/>、また軍備支出を大幅に増やしていった。結果、国家負債は激増し、国民の生活水準の成長率も半減したが、戦争経済体制の構築は進んだ<ref name="ヒトラーと第三帝国58">リチャード・オウヴァリー著『ヒトラーと第三帝国』(河出書房新社)58ページ</ref>。
 
この四カ年計画において実質的な実権者はゲーリングと親密な関係にあった[[IG・ファルベンインドゥストリー|IG・ファルベン]]の[[カール・クラウホ]]([[:en:Carl Krauch|Carl Krauch]])であった{{sfn|工藤章|1980|pp=64}}。計画の役員もIG・ファルベンの社員で占められていた。そのため計画の全投資の三分の二はIG・ファルベンに割り当てられている<ref name="ドイツ史3236">『ドイツ史〈3〉1890年~現在 』(山川出版社)236ページ</ref>。1938年からは実質的にIG・ファルベン計画となっていた<ref name="総統国家120">『総統国家―ナチスの支配 1933―1945年』120ページ</ref>。1939年1月には軍備費の増大に反対したシャハトらが完全に失脚し、ドイツの軍事経済化は一層進展していった
 
四カ年計画は個別においては注目すべき成果もあったが、現実を無視して設定されていたため、全体目標は達せられなかった。本来ならば多様であるべき生産領域は輸出の制限から更に縮小させてしまった。軍備増強による国民経済の歪みはナチ党政権が巧妙に国民の目から隠した<ref name="総統国家120">『総統国家―ナチスの支配 1933―1945年』120ページ</ref>。
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*[[村瀬興雄]]編 『ファシズムと第二次大戦 世界の歴史15』([[中公文庫]]、1975年)ISBN 978-4122002289
* {{Cite journal|和書|author=[[工藤章 (経済学者)|工藤章]]|title=ナチス戦争経済論ノート|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/120000823222|format=PDF|journal=信州大学経済学論集 |publisher=信州大学経済学部|issue=16|naid=120000823222|year=1980|pages=pp.61-79|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=[[川瀬泰史]]|title=ナチスドイツの経済回復|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110001139452|format=PDF|journal=立教経済学研究|publisher=立教大学|issue=58(4)|naid=110001139452|year=2005|pages=pp.23-43|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=[[村上和光]]|title=ナチス経済の展開と景気変動過程(上) : 現代資本主義論の体系化(9)|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110004436957|format=PDF|journal=金沢大学経済学部論集|publisher=金沢大学経済学部|issue=26(2)|naid=110004436957|year=2006|pages=pp.57-90|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=中村一浩|title=ナチス労働配置政策 1936-1939 : 国民徴用制への過程|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110000498924|format=PDF|journal=北星学園大学経済学部北星論集|publisher=北星学園大学|issue= 31|naid=110000421722|year=1994|pages=pp.1-25,154|ref=harv}}
=== 出典 ===
<references />
 
== 関連項目 ==
{{WikisourceWikisourcelang|de|1=Verordnung zur Durchführung des Vierjahresplanes|2=1936年9月9日に発せられた四カ年計画開始命令|3=ドイツ語原文}}
* [[ナチス・ドイツの経済]]
* [[五カ年計画]]([[ソビエト連邦]]の経済計画)
* [[混合経済]]、[[大きな政府]]