「平賀譲」の版間の差分

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妙高型は主砲の散布界が異常に大きく、連装3基の青葉に対し、連装5基で命中率が半分という欠陥があった。また水雷兵装を全廃した事も問題視された。これは国防の基本計画に関わる重大事であり、にもかかわらず平賀の独断で実行したからである。用兵側では主砲は8門でよしとし魚雷装備を求めたが、平賀は条約で戦艦の保有が制限されている以上、重巡洋艦は準戦艦たるべしという信念を持っていた。結果論としては平賀の見解が正解であり、実戦で重巡洋艦の魚雷装備が役立つ事は無かった。また他国の重巡の主砲が8〜9門に対し、平賀設計の重巡は火力・防御力とも優れていたのは事実である。
 
しかし、その性能は条約違反の排水量超過によるものであったのも否めず、現場を無視した平賀設計と、現場での尻拭い的改善が原因である。更に付け加えると、太平洋戦争時の日米巡洋艦の性能を比較すると、仮に日本の[[高雄型巡洋艦]]と、同クラスのアメリカの[[ボルチモア級巡洋艦]]が交戦した場合、砲戦力、防御力ともボルチモア級の方が上であり、ダメージコントロールや精密射撃、砲門口径上での不利(高雄が50口径、ボルチモアが55口径)を覆すためには、魚雷を命中させない限り高雄型の勝利は難しかったとされる。
 
上述の失態や暴挙をかばい立てできなくなった山本は、大正12年10月1日付で平賀に欧州への技術調査を命ずるとともに、海軍を退職した。後任の[[藤本喜久雄]]の最初の仕事は、連装砲塔装備の改古鷹型である青葉型の設計、妙高型の水雷兵装の復活という、平賀設計の問題視された部分の改定であった。藤本は主砲10門はそのままに魚雷装備と両立させ、用兵側を大いに喜ばせた。だが、用兵側の要求より高い目標で応じる藤本設計が、後の悲劇となる。