「フォルクスワーゲン・タイプ1」の版間の差分

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また生産工場の建設計画についても多くがポルシェに委ねられたことから、開発期間にポルシェは2度に渡って[[アメリカ合衆国]]を訪れ、大衆車の廉価な大量生産のノウハウを得るために[[フォード・モーター]]など大手自動車メーカー各社の工場を、現場の生産体制に至るまで詳細に視察した。
 
この際、ポルシェは自動車量産の始祖とも言える[[ヘンリー・フォード]]とも直に会談している。ヘンリー・フォード個人は熱烈な反ユダヤ主義者であり、彼が1920年代に著述した反ユダヤ宣伝の[[ヘンリー・フォード#国際ユダヤ主義|著作]]はヒトラーにも影響を与えたほどであった。そしてフォード自身、第二次世界大戦開戦以前にはヒトラーのドイツでの[[ユダヤ人]]弾圧活動に強いシンパシーを抱いていた。従ってヒトラーによって派遣されたポルシェにも協力的であり、また(自社傘下のドイツ・フォードと競合する可能性をはらむにも関わらず)ドイツでの大衆自動車量産の企画には大いに理解を示した。しかしポルシェの示したフォルクスワーゲンの尖鋭的な設計コンセプトについては、持ち前の保守性から評価しなかったという。
:1908年に[[フォード・モデルT|T型フォード]]を開発してからのヘンリー・フォードは、量産[[V型8気筒]]エンジンの開発(1932年発表)以外では徹底して保守的な設計に偏重した。その結果、フォード車の設計は少なくとも1948年までアメリカの大手自動車メーカーの中では最も旧弊なままであった。