「新共同訳聖書」の版間の差分

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* 新共同訳聖書は日本語訳聖書の伝統に反して、文語訳、口語訳から引き継がれてきた地名・人名・書名等の固有名詞を簡単に変えてしまっているとの批判がある(例: 口語訳「エペソ」→新共同訳「[[エフェソ]]」、口語訳「ペテロ」→新共同訳「[[ペトロ]]」、口語訳「ゼパニヤ」→新共同訳「[[ゼファニヤ]]」、口語訳「パリサイ人」→新共同訳「[[ファリサイ派]](の人々)」、口語訳「伝道の書」→「[[コヘレトの言葉]]」)<ref>「聖書翻訳を考える」、[[新改訳聖書刊行会]]編、いのちのことば社、2004年、154ページ</ref>。
 
* [[ルカによる福音書]]2章48節本文<ref>[http://www.academic-bible.com/en/online-bibles/greek-new-testament-ubs-gnt5/read-the-bible-text/bibel/text/lesen/stelle/52/20048/ ルカによる福音書2章48節 聖書協会世界連盟(UBS)第5版] {{lang|grc|καὶ ἰδόντες αὐτὸν ἐξεπλάγησαν, καὶ εἶπεν πρὸς αὐτὸν ἡ μήτηρ αὐτοῦ, Τέκνον, τί ἐποίησας ἡμῖν οὕτως; ἰδοὺ ὁ πατήρ σου κἀγὼ ὀδυνώμενοι ἐζητοῦμέν σε.}}</ref>にある{{音声ルビ|subst=2015-03
|Τέκνον|Teknon|rblang=grc|lang=Ja}}(「息子よ」)を、口語訳<ref>[[s:ルカによる福音書(口語訳)#2:48|ルカによる福音書2章48節 口語訳聖書]] 両親はこれを見て驚き、そして母が彼に言った、「どうしてこんな事をしてくれたのです。ごらんなさい、おとう様もわたしも心配して、あなたを捜していたのです」。</ref>や新改訳と同様に訳文から削除し、その理由も説明していない。ラテン語[[ヴルガータ]]聖書<ref>[[:la:s:Biblia_Sacra_Vulgata_(Stuttgartensia)/Lucas#2:48|ルカによる福音書2章48節 ラテン語ヴルガータ聖書]] et videntes admirati sunt et dixit mater eius ad illum fili quid fecisti nobis sic ecce pater tuus et ego dolentes quaerebamus te</ref>には "fili" と、ジェイムズ王[[欽定訳聖書]]([[:en:King James Version|{{lang|en|{{abbr|KJV|King James Version}}}}]])<ref>[[:en:s:Bible_(King_James)/Luke#2:48|ルカによる福音書2章48節 ジェイムズ王欽定訳聖書]] And when they saw him, they were amazed: and his mother said unto him, Son, why hast thou thus dealt with us? behold, thy father and I have sought thee sorrowing.</ref>や[[英文標準訳]]([[:en:English Standard Version|{{lang|en|{{abbr|ESV|English Standard Version}}}}]])<ref>[http://www.esvbible.org/Luke%202:48/ ルカによる福音書2章48節 英文標準訳聖書] And when his parents saw him, they were astonished. And his mother said to him, “Son, why have you treated us so? Behold, your father and I have been searching for you in great distress.”</ref>など複数の[[英語訳聖書]]には "Son," と、[[大正改訳聖書]]<ref>[[s:ルカ傳福音書(文語訳)#2:48|ルカ傳福音書2章48節 大正改訳聖書]] 兩親イエスを見て、いたく驚き、母は言ふ『兒よ、何故かかる事を我らに爲しぞ、視よ、汝の父と我と憂ひて尋ねたり』</ref>や[[日本正教会訳聖書]]<ref>[[s:ルカに因る聖福音#2:48|ルカに因る聖福音2章48節 日本正教会訳聖書]] 父母彼を見て駭けり、其母彼に謂へり、兒よ、何ぞ我等に斯く行ひたる、視よ、爾の父と我と憂ひて爾を尋ねたり。</ref>には「{{ルビ読み仮名|兒|こ}}よ、」と訳出されているほか、[[フランシスコ会訳聖書]]<ref>ルカによる福音書2章48節 [[フランシスコ会訳聖書]]</ref>でも削除されずに訳されている。これはイエスが12歳のときの[[過越]]祭で、まだイエスが聖都[[エルサレム]]にいることを知らない両親が、捜しながら1日分の旅路を引き返し、3日ぶりに見つけ出した際の母マリアのことば。
 
*「新約聖書ギリシャ語初歩」(教文館)の著者土岐健治教授(一橋大)は「原典との対照」という点に関しても、「日本語」という点に関しても「新共同訳は完全な失敗作」であるとしている。例えば、ヨハネ伝1章1節の訳「言(ことば)は神と共にあった」は、まずルターが"mit"と誤訳し、それが英訳聖書に"with"と受け継がれ、それをそのまま日本語訳が踏襲している。ギリシャ語では「プロス」で、ラテン語訳では"apud Deum"と正しく訳されていて、その意味は「の家で」「のもとで」であって、「と共に」とは訳せない。
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* 旧約に関しても、新共同訳は「ヘブライ語原典に拠っている」として、章節の数をヘブライ語原典に合わせているが、これは[[七十人訳聖書]]以来の翻訳の伝統に対する「配慮に欠けている」という批判がある<ref>一橋大学大学院言語社会研究科紀要「言語社会」2, 102-118, 2008-03-31,神の前における謙遜の営みについて :土岐健治インタビュー</ref>。例えば、伝統的な章節ではレビ記6章1節以下が新共同訳では5章20節以下になっており、利用にあたって不便である。
 
* [[レビ記]]13章46、47節で「重い皮膚病」、衣服に生じる「かび」とそれぞれ異なる訳語があてられている元のヘブル語は{{音声ルビ|subst=2015-03
|צָרָעַת|tsara’ath|rblang=he|lang=Ja}}<ref>[[:he:s:ויקרא_יג#מו|レビ記13章46節 ヘブル語タナッハ/ミクラー]] {{lang|he|כָּל יְמֵי אֲשֶׁר הַנֶּגַע בּוֹ יִטְמָא, טָמֵא הוּא, בָּדָד יֵשֵׁב מִחוּץ לַמַּחֲנֶה מוֹשָׁבוֹ.}}</ref>([[新改訳聖書]]ではツァラアト)である。病名として訳すのは間違いだという批判があり、国立ハンセン病療養所・長島愛生園内にある長島曙教会の大嶋得雄牧師などにより粘り強い運動が続けられている<ref>[http://ww1.tiki.ne.jp/~uruooosima/index.html 聖書の中の「らい」]</ref>。
 
* マタイ伝5:3 「心の貧しい人々は、幸いである」について(翻訳者がほぼ全員、「原文を偽っている」という結論に達していたにもかかわらず、協会が)「変えてしまったら売れなくなる」として、「定着度の高い表現は変えない」ことになった。「翻訳者たちに高い翻訳料を払い、10億円もの予算を使って取り組んだことがそんなところに流れてしまう」本田哲郎。<ref>[http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/0/0236970.html 「聖書を発見する」岩波書店,p.146,2010年11月]</ref>