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'''原 石鼎'''(はら せきてい、[[1886年]][[3月19日]] - [[1951年]][[12月20日]])は、[[島根県]]出身の[[簸川郡俳人]]塩冶村(現[[出雲市高浜虚子]])出身の日本に師事、「鹿火屋」を創刊・主宰。大正期[[俳人ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]」を代表する作家の一人で、色彩感覚に優れたみずみずしい作風で一世を風靡した。本名は鼎。号・鉄鼎。別・ひぐらていた
 
== 出典生涯 ==
医師の家に生まれ、県立簸川中学校(現在の[[島根県立大社高等学校]])に入学。5年生の時、新任教員であった俳人の[[竹村秋竹]]の家に寄宿し、秋竹の影響を受け俳句、短歌を初めとする文学活動に熱中したが、耽溺し過ぎて学業が疎かになり進学に失敗した挙句、放校処分となる。
[[簸川郡]]塩冶村(現[[出雲市]])の医師の家に三男として生まれ、県立簸川中学校(現在の[[島根県立大社高等学校]])に入学。2年のときに『山陰新報』課題句に投句し入選。5年生の時、新任教員であった俳人の[[竹村秋竹]]の家に寄宿し、秋竹の影響を受け俳句、短歌を初めとする文学活動に熱中。『国文学』に俳句、短歌、文を投稿ししばしば入選した(俳句は[[河東碧梧桐]]、歌・文は[[金子薫園]]選)。卒業後、受験失敗を繰り返したのち1908年に京都医学専門学校に入学。校内で句会を起こし、また[[明星]]派の歌会に出席するが、2年続けて落第し放校処分となり、1911年より各地を[[放浪]]しはじめる。
 
1912年、吉野の鷲家村で次兄の医業を手伝う。「[[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]」に投句、翌年に[[高浜虚子]]から[[前田普羅]]とともに新人として称揚される。その後帰郷したが、医者になれなかったことを叱責され両親から勘当される。1913年よりふたたび放浪、1915年、上京しホトトギス社に入社。虚子の後述筆記など雑用を担当する。1917年、ホトトギス社を退社。『東京日々新聞』嘱託となり、『東京日々新聞』および『大阪毎日新聞』選者。1918年、志賀コウ([[原コウ子]])と結婚。1921年、[[小野蕪子]]の「草汁」を譲られ、「平野」「ヤカナ」を統合したのち「鹿火屋」に改称、主宰となる。また同年に詩人の[[北園克衛]]が自宅の離れに住み、親交を持った。
その後歯科医を志して上京するも頓挫し、各地を[[放浪]]しながら職を転々とする。放浪生活の中で[[高浜虚子]]の知遇を得、彼の指摘を受けて帰郷の途に着くが、途中奈良吉野の小川村で次兄が営む病院に逗留し、そのまま定着して診療所の手伝いをしながら、吉野の山中で孤独な生活を送った。石鼎の俳人としての感性が培われたのはこの時期であった。二年足らずで吉野を後にし帰郷したが、医者になれなかったことを叱責され両親から勘当される。各地を漂泊した後、大正4年(1915年)再び上京して「[[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]」に入社し、虚子の手伝いをしながら生活していた。
 
1923年の関東大震災以降は[[神経衰弱]]に苦しみ、また虚子と対立を深め絶縁に至ったが、たびたび病に伏せながらその死まで後進の指導を続けた。「松朽ち葉かゝらぬ五百木無かりけり」が辞世。句集は『自選句集 花影』(1937年)が生前唯一の句集である。死後、「鹿火屋」主宰は妻のコウ子、のち養子の[[原裕]]が継いだ。
大正6年(1917年)にホトトギスを去り、[[東京日日新聞]]に入社。同紙と大阪毎日新聞の俳句の選者となった。また俳句雑誌「[[鹿火屋]]」の主宰も行った。晩年は神経症に苦しみ、昭和16年(1941年)に隠棲したが、その後も俳人としての活動は続けた。
 
== 作品 ==
虚子からは[[前田普羅]]と肩を並べる新進気鋭の逸材であると称賛されていた。代表的な句に「頂上や殊に野菊の吹かれ居り」「秋風や模様のちがふ皿二つ」などがある。
代表的な句に
*頂上や殊に野菊の吹かれ居り(1912年作)
*淋しさに又銅鑼打つや鹿火屋守(1914年作)
*花影婆娑と踏むべくありぬ岨の月(1914年作)
*秋風や模様のちがふ皿二つ(1915年作)
*雪に来て美事な鳥のだまり居る(1934年作)
などがある。放浪生活、特に深吉野の山中で孤独な生活を送ったことで俳人としての感性が涵養され、この頃の作に有名なものが多い<ref>『定本 現代俳句』104頁。</ref>。虚子は『進むべき俳句の道』(1916-18年)において、その作風を「豪華、跌宕(てっとう、物事に拘らないこと)」と評した。[[山本健吉]]は「頂上や」の句について、季語や主観語でもないものを初語の「や」止めに用いた無造作さ、「殊に」という一種の素人くさい言い回しなどを指摘し、こういった句が大正期の俳句界における軽やかで自由な表現の先蹤をなしていると論じている<ref>『定本 現代俳句』104-105頁。</ref>。また石鼎は「ホトトギス」の挿絵も描くなど絵も得意としており、俳句における豊かな色彩感覚も指摘される<ref name=DAIJITEN>[[小島健]] 「原石鼎」『現代俳句大事典』 460-461頁。</ref>。こうした石鼎の句風は大正期に現われた後進の俳人に大きな影響を与えており、山本健吉はのちの「四S」の前に「石鼎時代」があったとしている<ref name=DAIJITEN/>。
 
掲句では上の三句が吉野時代の句で、「頂上や」の句は[[神武天皇]]が天皇皇祖を祭った鳥見霊畤址の光景から成った(ただし場所の由緒に気づいたのは句作の後)<ref name=DAIJITEN/>。「淋しさに」の句は主宰誌「鹿火屋」の名に取られている句、「花影婆娑と」は生前唯一の句集の題に取られている句で代表句として喧伝されたものである<ref>『定本 現代俳句』 105頁。</ref>。「秋風や」の句は吉野時代の後、山陰地方を放浪していた頃に成った句で、「父母のあたゝかきふところにさへ入ることをせぬ放浪の子は伯州米子に去って仮の宿とす」との前書きがある。背景にはその頃に起こした恋愛事件もあった<ref name=DAIJITEN/>。虚子は「目前の些事をつかまえて来てそれで心持の深い句を作ることができる」と評し<ref>内藤呈念 「原石鼎」『ホトトギスの俳人101』 23頁。</ref>、山本健吉も同様に「二枚の皿の模様の違いという微細なものをとらえて、しかもそこに打ち出された作者の主観は非常に強いのである」と解説している<ref>『定本 現代俳句』 107頁。</ref>。「取合わせ」の近代における秀句として名高い<ref name=DAIJITEN/>。
== 出典 ==
 
== 著書 ==
*俳句の考へ方(天地書房、1918年)
*自選句集 花影(改造社、1937年)
*石鼎句集(かびや発行所、1948年)
*定本石鼎句集(求龍堂、1968年)
*原石鼎全句集(沖積舎、1990年)
 
== 脚注 ==
<references/>
 
== 参考文献 ==
*[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]より「原石鼎」
*[[中村幸弘]]監修『名句鑑賞辞典』(学研)ISBN 4-05-302120-0 71-75頁
*[[山本健吉]]『定本 現代俳句』 角川書店、1998年
*[[稲畑汀子]]、[[大岡信]]、[[鷹羽狩行]]監修 『現代俳句大事典』 三省堂、2005年
*稲畑汀子編 『ホトトギスの俳人101』 新書館、2010年
 
== 関連文献 ==
*[[小室善弘]] 『俳人原石鼎』 明治書院、1973年
*[[原コウ子]] 『石鼎とともに』 明治書院、1979年
*[[小島信夫]] 『原石鼎 百二十年目の風雅』 河出書房新社、1990年
*[[原裕]] 『原石鼎』 本阿弥書店、1992年
*[[岩淵喜代子]] 『二冊の「鹿火屋」―原石鼎の憧憬』 邑書林、2014年
 
== 外部リンク ==
*現代俳句人名事典における[http://www.weblio.jp/content/%E5%8E%9F%E7%9F%B3%E9%BC%8E 現代俳句データベース 原石鼎の俳句]
*[http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=19981026,19981109,19990517,20000613,20000701,20010401,20010424,20020802,20021027,20030130,20060808,20080426,20121002,20130203,20130728,20141203&tit=%8C%B4%81%40%90%CE%93C&tit2=%8C%B4%81%40%90%CE%93C%82%CC 増殖する俳句歳時記 原石鼎の句]
 
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