「立法議会」の版間の差分

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[[1791年]][[9月30日]]、[[憲法制定国民議会|立憲議会]]が目的を達して解散した時、議員[[マクシミリアン・ロベスピエール|ロベスピエール]]の提案により、法を作った者がその法の恩恵に預かるのはいかがなものかということで、立憲議員であった者は新議会にはなれないように決議されたが、結果的に[[10月1日]]に集まった立法議員はほぼすべてが新人議員という'''経験に乏しい議会'''となった。「国民議会」は継続されたが、議員を総入れ替えしたわけである。しかし未熟な政治は、いたずらに対立するばかりで、無計画の[[フランス革命戦争|戦争]]を起こしたり、[[党派主義]]による政治の停滞を招き、従来の財政再建といった宿題を解決できぬまま、戦況の悪化や、[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]の[[拒否権]]乱発の前にさじを投げ、崩壊するに至った。空の国庫、暴落する為替通貨、[[アッシニア]]は紙同然となり、規律のない陸軍、士官のいない海軍、国内外の混乱と混沌が後には残された。これらが立法議会が1年も続かずに短命に終わった原因である。
 
[[1792年]]、[[8月10日事件]]で起こったことの背景には、共和派が{{ルビ読み仮名|[[パリ・コミューン (1792年)|自治市会]]|パリ・コミューン}}のような[[直接民主制]]をベースにした民衆の直接行動を原動力としたことにあり、フランス革命の主体は、ブルジョワジーからサン・キュロット(別の言い方をすれば[[プロレタリアート]])に決定的に移っていった。つまりは事件は、立法議会で参政権がないとされた彼らが、王政のみならず議会も転覆させた第二の革命という性格があったということで、以後の革命の急進化は必然だったと言える。
 
他方、立法議会では、現在も使われる[[右翼]]や[[左翼]]という派閥[[イデオロギー]]の表現も登場した。議長席からみて右側が[[王党派]]や[[立憲君主派]]、つまり[[フイヤン派]]が議席を占め、左側が共和派である[[ジャコバン派]]([[ジロンド派]]を含む)が議席を占めて、討論をしたからである。ちなみに立法議会では、フイヤン派の方がジャコバン派よりも数が多かったが、両派閥とも最多派閥ではなく、中立派と呼ばれる態度不鮮明の議員が最も数が多かった。[[政党政治]]ではなく党が存在しなかったので、議員は個々人の政治信条に従って行動したが、全員が国王に忠誠を誓った身であり、立法議会は君主国家の議会であって、共和派は最後まで少数の急進派に限られた。
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* '''[[間接選挙]]''':有権者は所定の人数の'''選挙人'''を選ぶ。選挙人は、能動的市民であり、かつ人口6,000人以上の都会では200労働日に等しい所得か財産所有、それ以外の田舎では150労働日に等しい所得か財産所有あるいは住居の賃貸収入、または400労働日に相当する小作地の折半小作人または小作人<ref>しばしば誤解されるが、大土地所有地主が多かった西ヨーロッパでは、小作人は貧農を必ずしも意味せず、地主の土地管理人でもあった大小作農の中には、生産物価格の高騰によって暴利を得て富農となった者が少なくなかった。彼らは後の封建的特権の無償廃止で、耕作地を手に入れ、土地ブルジョワとして成長する</ref>であることを、納税台帳で事前に認められる必要がある(第3編第2節第7条)
:(事実上、選挙人は上流ブルジョワと地主らに限定され、彼らが議員を選ぶことになる)
* 選ばれた選挙人は{{ルビ読み仮名|小郡|カントン}}ごとの'''選挙人会'''に集まって選挙し、その県の能動的市民(選挙人自身も含む)の中から所定の人数の'''議員'''と補欠候補を選ぶ(第3編第3節第1〜3条)
* ただし大臣や中央機構の官吏、徴税官、王室の文武官、司法関係者は議員にはなれず、地方の行政官や官吏、国民衛兵隊指揮官等は、議員との兼任は許されない(第3編第3節第4条)
{{main|1791年憲法}}