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[[考古学]]的には、鹿児島県・[[宮崎県]]境周辺に[[地下式横穴墓]]が分布し、これを隼人と関係づける説もある<ref>「地下式横穴墓」は日向・大隅・薩摩にまたがるが、「地下式板石積石室」はほとんど薩摩地方に限られている。この事から、前者が隼人に広く普及した墓制であり、後者は阿多隼人独特の墓制と推測されている。参考・『日本の考古学 IV 古墳時代 (上)』 近藤義郎 藤沢長治編 河出書房 1966年 p.163 </ref>。これを含み、考古学上、隼人の墓制は三種類あり、薩摩半島南部の「立石土壙墓」(阿多隼人の墓と推測される<!-- 門脇禎二 森浩一 『古代史を解く『鍵(キーワード)』』 学生社 1995年 pp.184 - 185 -->)と「地下式板石積石室」(薩摩半島より北域)、そして広域に分布する「地下式横穴墓」となる。また、南山城の[[男山]]丘陵の大住からも横穴が多く発見されている(本来、山砂利を取る地域であり、横穴は掘りにくい地域の為、隼人墓制と対応するものとみられる<!-- 同『古代史を解く『鍵』』 p.187 -->)。
 
[[日本神話]]では、[[海幸彦]]({{ルビ読み仮名|火照|ホデリ}}命または火闌降命)が隼人の阿多君の祖神とされ([[海幸山幸]])、海幸彦が山幸彦に仕返しされて苦しむ姿を真似たのが隼人舞であるという<ref>『古事記』に、ホデリの命が頭を下げ、「私はこれからのちは、あなた様の昼夜の守護人(もりびと)となってお仕えいたしましょう」と申し、それで今日に至るまでホデリの命の子孫たる隼人は、その海水に溺れた時の様々のしぐさを絶える事なく、演じて、宮廷にお仕え申しているのである、とある。参考・次田真幸 『古事記 (上) 全訳注』 [[講談社学術文庫]] 38冊2001年(初版 1977年) ISBN 4-06-158207-0 p.205より。武田祏吉譯注 『古事記』 [[角川書店]] 40版1969年(初版 1956年) p.69の脚注に「隼人が乱舞をして宮廷に仕える事の起源説明」とあり、隼人舞はその種族の独自の舞であるのを溺れる様の真似と説明した、と記す。</ref>。説話の類型(大林太良ら)などから、隼人文化は[[オーストロネシア語]]系文化であるとの説もある<ref>[[次田真幸]] 『古事記 (上) 全訳注』 [[講談社学術文庫]] 38刷2001年(初版 1977年) ISBN 4-06-158207-0 p.192、[[コノハナサクヤヒメ]]伝説が[[バナナ型神話]]の類型とし、これが大和の『古事記』に導入された。参考・[[松村武雄]]『日本神話の研究』第二巻、[[大林太良]]『日本神話の起源』。</ref>。[[654年]](7世紀中頃)、日向に覩貨邏(通常は西域の[[トハラ人]]と解釈するが、現在のタイ・[[ドヴァーラヴァティ王国|ドヴァーラヴァティとの説有り]])の民が漂着した記述がある<ref>熊谷公男 日本の歴史03『大王から天皇へ』 [[講談社]] 2001年 ISBN 4-06-268903-0 p.288より</ref>。
 
=== 人骨から見た違い ===