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:そのため、[[イスラム教|イスラーム]]の教義を左右する宗教的権限や[[クルアーン]](コーラン)を独断的に解釈して立法する権限を持たない。
:これらは、[[ウラマー]]たちの合意によって補われる。
 
==歴史==
西暦[[632年]]にムハンマドが死去した後、イスラーム共同体の指導者として[[アブー・バクル]]が選出され「[[アッラーフ|神]]の[[使徒]]の[[代理人]]」(ハリーファ・ラスール・アッラーフ)を称したことに始まる。2代目のカリフとなった[[ウマル・イブン・ハッターブ|ウマル]]は「信徒たちの長」([[アミール|アミール・アル=ムウミニーン]])という称号を採用し、カリフの称号とともに用いられるようになった。
 
その後、[[ウスマーン・イブン・アッファーン|ウスマーン]]、[[アリー・イブン=アビー=ターリブ|アリー]]に受け継がれ、[[ウマイヤ朝]]、[[アッバース朝]]に世襲されてゆく過程で[[ハワーリジュ派]]、[[シーア派]]などがカリフの権威を否定して分派し、従うのは[[スンナ派]]のみになった。その後[[10世紀]]にアッバース朝のカリフが[[アミール]]に政権を委ねるようになるとカリフは実権を失って、アミールや[[スルタン]]の支配権を承認し代わりに庇護を受け入れるだけの権威に失墜した。さらに[[ファーティマ朝]]、[[後ウマイヤ朝]]もカリフを称するようになって、スンナ派全体に影響力を及ぼすことさえ出来なくなった。[[1258年]]には[[モンゴル帝国]]によってアッバース朝のカリフが見せしめとして処刑され、アッバース朝は滅亡したものの、[[マムルーク朝]]は生き残ったアッバース家の者を首都[[カイロ]]に迎え新たにカリフとして擁立し、外来者である[[マムルーク]]出身のスルタンに支配の正当性を与える存在として存続させた。[[1517年]]、マムルーク朝が[[オスマン帝国]]に滅ぼされると、カリフは廃位された。
 
オスマン朝は当初、カリフ位の権威に頼らずとも実力をもってスンナ派イスラム世界の盟主として振舞うことができたが、18世紀の末頃から19世紀にかけて、[[ロシア]]などの周辺諸国に対する軍事的劣勢が明らかになると、オスマン帝国内外のスンナ派[[ムスリム]]に影響を及ぼすために、カリフの権威が必要とされるようになった。そこで、[[16世紀]]初頭にオスマン帝国のスルタンはアッバース家最後のカリフからカリフ権の禅譲を受け、スルタンとカリフを兼ね備えた君主であるという伝説が生まれた('''スルタン=カリフ制''')。しかし、オスマン帝国の滅亡によって、[[オスマン家]]のスルタン=カリフは[[1922年]]に退位し、スルタン制が廃止された。インドや中央アジアのムスリムやクルド人は、精神的支柱としてのカリフ制の存続を強く望んでいたが、[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク]]によって1924年にカリフ制も廃止された。[[アブデュルメジト2世]]がイスラム世界で承認された最後のカリフとなる。
 
同年、預言者ムハンマドに連なる[[ハーシム家]]出身であった[[ヒジャーズ王国]]の王、[[フサイン・イブン・アリー (マッカのシャリーフ)|フサイン・イブン・アリー]]がカリフを名乗ったが、支持したのは[[オスマン帝国]]最後の皇帝[[メフメト6世]]<ref>Teitelbaum, Joshua (2001). The Rise and Fall of the Hashimite Kingdom of Arabia, p.240, London: C. Hurst & Co. Publishers. ISBN 978-1-85065-460-5</ref>ぐらいでイスラム世界で広く承認されることはなかった。
 
その後は[[ユースフ・アル=カラダーウィー]]<ref name="sankei">[http://sankei.jp.msn.com/world/news/140708/mds14070813050006-n1.htm イスラム国「カリフ制宣言」 反発浴びつつアラブの春の幻に代わる恐れも]、[[産経新聞]]、[[2014年]][[7月8日]]、同年[[8月13日]]閲覧</ref>ら一部の[[イスラム原理主義|イスラム原理主義者]]によりカリフ制の復活が唱えられたが、イスラム社会からは認められていない。
 
そして[[2014年]]には、[[イラク]]、[[シリア]]両国にまたがる地域を掌握した[[イスラム過激派|過激派組織]][[ISIL]]が、支配地域における国家としての独立と、指導者の[[アブー・バクル・アル=バグダーディー]]のカリフ即位を宣言した。しかし、この即位についても、現時点では、イスラム社会を含め国際社会で承認する動きはない。上記のカラダーウィーも、今回のISILによるカリフ即位宣言は無効であると表明している<ref name="sankei"></ref>。
 
==カリフの条件==
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*[[クライシュ族]]の男系の子孫であること
ただし現実には、これらの条件のいくつか(成年者であることなど)はしばしば無視された。例えばオスマン帝国はテュルク系の部族によって設立された王朝であるため[[ムハンマド]]の部族であるクライシュ族の男系であることはありえない。また[[ハワーリジュ派]]や[[ムータジラ派]]は「たとえ奴隷や黒人であっても」全てのイスラーム教徒がカリフたりうると主張した。
 
==歴史==
西暦[[632年]]にムハンマドが死去した後、イスラーム共同体の指導者として[[アブー・バクル]]が選出され「[[アッラーフ|神]]の[[使徒]]の[[代理人]]」(ハリーファ・ラスール・アッラーフ)を称したことに始まる。2代目のカリフとなった[[ウマル・イブン・ハッターブ|ウマル]]は「信徒たちの長」([[アミール|アミール・アル=ムウミニーン]])という称号を採用し、カリフの称号とともに用いられるようになった。
 
その後、[[ウスマーン・イブン・アッファーン|ウスマーン]]、[[アリー・イブン=アビー=ターリブ|アリー]]に受け継がれ、[[ウマイヤ朝]]、[[アッバース朝]]に世襲されてゆく過程で[[ハワーリジュ派]]、[[シーア派]]などがカリフの権威を否定して分派し、従うのは[[スンナ派]]のみになった。その後[[10世紀]]にアッバース朝のカリフが[[アミール]]に政権を委ねるようになるとカリフは実権を失って、アミールや[[スルタン]]の支配権を承認し代わりに庇護を受け入れるだけの権威に失墜した。さらに[[ファーティマ朝]]、[[後ウマイヤ朝]]もカリフを称するようになって、スンナ派全体に影響力を及ぼすことさえ出来なくなった。[[1258年]]には[[モンゴル帝国]]によってアッバース朝のカリフが見せしめとして処刑され、アッバース朝は滅亡したものの、[[マムルーク朝]]は生き残ったアッバース家の者を首都[[カイロ]]に迎え新たにカリフとして擁立し、外来者である[[マムルーク]]出身のスルタンに支配の正当性を与える存在として存続させた。[[1517年]]、マムルーク朝が[[オスマン帝国]]に滅ぼされると、カリフは廃位された。
 
オスマン朝は当初、カリフ位の権威に頼らずとも実力をもってスンナ派イスラム世界の盟主として振舞うことができたが、18世紀の末頃から19世紀にかけて、[[ロシア]]などの周辺諸国に対する軍事的劣勢が明らかになると、オスマン帝国内外のスンナ派[[ムスリム]]に影響を及ぼすために、カリフの権威が必要とされるようになった。そこで、[[16世紀]]初頭にオスマン帝国のスルタンはアッバース家最後のカリフからカリフ権の禅譲を受け、スルタンとカリフを兼ね備えた君主であるという伝説が生まれた('''スルタン=カリフ制''')。しかし、オスマン帝国の滅亡によって、[[オスマン家]]のスルタン=カリフは[[1922年]]に退位し、スルタン制が廃止された。インドや中央アジアのムスリムやクルド人は、精神的支柱としてのカリフ制の存続を強く望んでいたが、[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク]]によって1924年にカリフ制も廃止された。[[アブデュルメジト2世]]がイスラム世界で承認された最後のカリフとなる。
 
同年、預言者ムハンマドに連なる[[ハーシム家]]出身であった[[ヒジャーズ王国]]の王、[[フサイン・イブン・アリー (マッカのシャリーフ)|フサイン・イブン・アリー]]がカリフを名乗ったが、支持したのは[[オスマン帝国]]最後の皇帝[[メフメト6世]]<ref>Teitelbaum, Joshua (2001). The Rise and Fall of the Hashimite Kingdom of Arabia, p.240, London: C. Hurst & Co. Publishers. ISBN 978-1-85065-460-5</ref>ぐらいでイスラム世界で広く承認されることはなかった。
 
その後は[[ユースフ・アル=カラダーウィー]]<ref name="sankei">[http://sankei.jp.msn.com/world/news/140708/mds14070813050006-n1.htm イスラム国「カリフ制宣言」 反発浴びつつアラブの春の幻に代わる恐れも]、[[産経新聞]]、[[2014年]][[7月8日]]、同年[[8月13日]]閲覧</ref>ら一部の[[イスラム原理主義|イスラム原理主義者]]によりカリフ制の復活が唱えられたが、イスラム社会からは認められていない。
 
そして[[2014年]]には、[[イラク]]、[[シリア]]両国にまたがる地域を掌握した[[イスラム過激派|過激派組織]][[ISIL]]が、支配地域における国家としての独立と、指導者の[[アブー・バクル・アル=バグダーディー]]のカリフ即位を宣言した。しかし、この即位についても、現時点では、イスラム社会を含め国際社会で承認する動きはない。上記のカラダーウィーも、今回のISILによるカリフ即位宣言は無効であると表明している<ref name="sankei"></ref>。
 
==脚注==