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'''ジャライル朝'''([[ペルシア語]] : '''جلايريان''' Jalāyīrīyān, [[1336年]] - [[1432年]])は、[[イルハン朝]]の解体後に[[イラン]]西部から[[イラク]]にかけての旧イルハン朝西部地域一帯を支配した[[モンゴル]]の[[イスラーム王朝]]。'''ジャラーイル朝'''、'''ジャラーイ-ル朝'''とも呼ばれる。
 
王朝の名は、[[モンゴル帝国]]を構成した有力部族のひとつ[[ジャライル]]部から王家が出たことに由来している。
 
== 歴史 ==
イランにおける[[ジャライル]]部は、その先祖イルゲイ・ノヤンのとき、[[フレグ]]の西征に従って[[西アジア]]の各地を転戦し、戦功によって代々イルハン朝に最上位の重臣として仕える有力部族集団となった。イルハン朝のフレグ家最後の君主[[アブー・サイード|アブー・サイード・ハン]]のとき、アブー・サイードの祖父[[アルグン]]を外祖父とし、ハンとは従兄弟の関係にあたるジャライル部当主[[タージュ・ウッディーン・ハサン・ブズルグ|シャイフ・ハサン]](大ハサン)が宮廷の有力者として台頭し、権勢をふるった。だが、アブー・サイードが力づくでシャイフ・ハサンの妻を奪って自分の妃にした事から、両者の間に確執が生じた。
 
[[1335年]]にアブー・サイード・ハンが没し、フレグ家の血統が絶えると、それぞれに[[チンギス・カン|チンギス・ハーン]]の血を引く傍系の王族を擁立した有力者同士の抗争が激化するが、中でもイルハン朝の中心地である[[アゼルバイジャン]]・[[タブリーズ]]地方の草原地帯を巡ってジャライル部の大ハサンと、[[タイチュウト|スルドス]]部<ref>タイチュウトの部族のひとつ。</ref>の指導者で同名の[[シャイフ・ハサン]](小ハサン)の間で熾烈な抗争が起こった。