「アレクシオス1世コムネノス」の版間の差分

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| 別号 =
| 全名 = アレクシオス・コムネノス
| 配偶者1 = エイレーネー・ドゥーカイナ([[アンドロニコス・ドゥーカス (ロマノス4世ディオゲネスの部下)|アンドロニコス・ドゥーカス]]娘)
| 子女 = [[アンナ・コムネナ]]<br />マリア・コムネナ<br />[[ヨハネス2世コムネノス]]<br />アンドロニコス・コムネノス<br />イサキオス・コムネノス<br />エウドキア・コムネナ<br />テオドラ・コムネナ<br />マヌエル・コムネノス<br />ゾエ・コムネナ
| 王家 =
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}}
 
'''アレクシオス1世コムネノス'''([[ギリシア語]]:{{lang|el|'''Αλέξιος Α' Κομνηνός''' (Alexios I Komnēnos)}}、[[1048年]] - [[1118年]][[8月15日]])は、[[東ローマ帝国]](ビザンツ帝国)[[コムネノス王朝]]の初代[[皇帝]](在位:[[1081年]] - 1118年)。[[マケドニア王朝 (東ローマ)|マケドニア王朝]]断絶後に皇帝となった[[イサキオス1世コムネノス]]の甥に当たる。24歳の若さで[[将軍]]となった。皇帝[[ミカエル7世ドゥーカス|ミカエル7世]]の従弟[[アンドロニコス・ドゥーカス (ロマノス4世ディオゲネスの部下)|アンドロニコス・ドゥーカス]]の娘エイレーネーと結婚した。
 
[[ドゥーカス王朝]]支配下の頃の東ローマ帝国は、内部では有力貴族の反乱が起こり、外部からは[[セルジューク朝]]や[[ノルマン人]]に東西から侵攻を受け、まさに内憂外患の状態にあった。特に小アジアは大半が奪われ、首都[[コンスタンティノープル|コンスタンティノポリス]]の対岸にまでトルコ人が迫っていた。