「エピロス専制侯国」の版間の差分

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[[アンゲロス王朝]]の初代皇帝[[イサキオス2世アンゲロス]]の従兄弟[[ミカエル1世コムネノス・ドゥーカス]](男系では[[アンゲロス王朝|アンゲロス家]]に属するが、女系でドゥーカス家、[[コムネノス王朝|コムネノス家]]と連なるためにコムネノス・ドゥーカスと名乗っていた)が[[1205年]]、ギリシャ西岸の街アルタを首府として建国した(在位:[[1205年]] - [[1215年]])。当初は[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]や[[十字軍]]の建てた[[テッサロニキ王国]]へ臣従しながら地歩を固めていたが、1210年夏以降は反旗を翻してギリシャ西北部・[[イピロス|エピロス]]地方を占領、東方の[[ニカイア帝国]]とならぶ一大勢力に成長した。
 
ミカエルの弟[[テオドロス1世コムネノス・ドゥーカス|テオドロス]]は、[[ラテン帝国]]の皇帝[[ピエール2世・ド・クルトネー|ピエール・ド・クルトネー]]を[[アルバニア]]の山中で捕らえるなど軍事的に活躍した。[[1224年]]にはテッサロニキ王国を滅ぼし、[[テッサロニキ]]で[[皇帝]]を称した。これによって東のニカイア、西のエピロスの双方が東ローマ帝国の正統な後継者を名乗ることになった。この時期を「'''テッサロニキ帝国'''」と呼ぶこともある。
 
テオドロスはコンスタンティノポリス奪回を目指し、[[1230年]]、背後を固めるために[[第二次ブルガリア帝国|ブルガリア帝国]]を攻撃したが、大敗を喫してブルガリア軍に捕らえられてしまった。これ以降、エピロスの力は衰えて分裂を起こし、代わって[[ニカイア帝国]]がバルカン半島にも領土を広げてコンスタンティノポリス奪回の最有力勢力となった。テオドロスの息子ヨハネスは[[1242年]]、皇帝の称号を諦め、ニカイア皇帝[[ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス|ヨハネス3世]]から専制公(デスポテース)の称号を受けた。ヨハネスはニカイア帝国の宗主権を認めざるを得なくなってしまったのである。