「清貧譚」の版間の差分

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佐渡
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「'''清貧譚'''」(せいひんたん)は、[[太宰治]]の[[短編小説]]。
 
『[[新潮]]』1941年(昭和16年)1月号に掲載された。同年8月25日発行の作品集『[[千代女 (短編集)|千代女]]』([[筑摩書房]])に収録された{{Refnest|group="注"|作品集『千代女』の収録作品は以下のとおり。「みみずく通信」「[[佐渡 (小説)|佐渡]]」「清貧譚」「服装に就いて」「令嬢アユ」「千代女」「ろまん灯篭」<ref>[http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I007419391-00 千代女 : 太宰治創作短篇 (筑摩書房): 1941|書誌詳細|国立国会図書館サーチ]</ref>。}}
 
== 執筆の時期・背景 ==
門人の[[小山清]]が著した「風貌――太宰治のこと――」という文章に次ような一節がある。「私が初めて太宰さんを三鷹の家に訪ねたのは、太宰さんが甲府から三鷹へ移つた翌年で、昭和十五年の十一月の中旬であつた。(中略) その日太宰さんの机の上には、[[田中貢太郎]]訳の『[[聊斎志異]]』の原文の箇所がひらかれてあつた。翻訳をしてゐるのかと問ふと、翻案をしてゐるといふ答だつた。翻案といふ言葉は使はなかつたが。『黄英』に取材した『清貧譚』を執筆されてゐたのである」<ref>[[小山清]]「風貌――太宰治のこと――」 『風雪』1950年7月号収録。</ref>
 
太宰は[[新潟高等学校 (旧制)|新潟高等学校]]{{Refnest|group="注"|<ref>旧制の新潟高等学校。戦後、[[新潟大学]]に包括され、同大学の[[人文学部]]および[[理学部]]の前身となった。}}</ref>で講演をするために、1940年(昭和15年)11月15日に上野駅を発っている。本作品は同日までに脱稿したものと推定される(原稿用紙25枚)<ref>『太宰治全集 第4巻』筑摩書房、1989年12月15日、372頁。解題([[山内祥史]])より。</ref>。
 
前述の『聊斎志異』(北隆堂書店、1929年11月10日、田中貢太郎訳・公田連太郎註)は、もともと妻の[[津島美知子|美知子]]の愛読書であり、美知子が1939年(昭和14年)1月に太宰と結婚した際に持参したものの一つであった<ref>菊田義孝 『私の太宰治』大光社、1967年11月1日。 </ref>。なお太宰は同書をもとに『[[竹青]]』(『文藝』1945年4月号掲載)という短編も書いている。
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== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
 
=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
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* [[聊斎志異]]
* [[竹青]]
* [[千代女 (短編集)]]
 
== 外部リンク ==