「クローヴィス1世 (フランク王)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m 曖昧さ回避ページへのリンクを付け替え(首都
Frozen-mikan (会話 | 投稿記録)
m リンク修正: ソワソンの戦い
38行目:
[[サリー・フランク族]]の[[フランク王の一覧|王]]{{仮リンク|キルデリクス1世|en|Childeric I}}を父、{{仮リンク|テューリンゲン族|de|Thüringer|en|Thuringii}}の{{仮リンク|バジーナ (テューリンゲン族)|en|Basina of Thuringia|label=バジーナ}}を母として[[トゥルネー]](現ベルギー領)で生まれた。当時は現代の[[フランス]]・[[ベルギー]]国境付近の[[トゥルネー]]、[[カンブレー]]を中心とする[[ライン川]]低地西部を占めていたに過ぎなかった。
 
[[481年]]に即位したクロヴィスはライン川北岸の[[フランク人]]を統一、[[486年]]には[[ガリア]]北部を支配していた[[西ローマ帝国|西ローマ]]系軍閥の[[アフラニウス・シュアグリウス]]を{{仮リンク|[[ソワソンの戦い|en|Battle of Soissons (486)|}}]]で破り、版図を一挙に[[ロワール川]]北部に拡大、旧ローマ属州ベルギカ・セクンダを支配下に治めた<ref>R.ミュソ=グラール、p.42。</ref>。さらにクロヴィスは妹のアウドフレドを[[東ゴート王国]]の[[テオドリック (東ゴート王)|テオドリック]]に嫁がせて同盟を固め、[[493年]]には[[ブルグンド王国]]の王女[[クロティルダ (フランク王妃)|クロティルド]]とソワソンで結婚した。
 
[[496年]]から[[497年]]にかけて、{{仮リンク|トルビアックの戦い|en|Battle of Tolbiac|}}で[[アラマンニ人]]に勝利した後、王妃クロティルドの薦めで[[カトリック教会|カトリック]]に改宗した。[[東ローマ帝国]]の人物との接触の長いフランク族の王クロヴィスは[[キリスト教]][[アタナシオス派|ニカイア派]]を信仰していた<ref>R.ミュソ=グラール、p.81。</ref>。この改宗はゲルマン民族諸王の中で初めて行われたカトリックへの改宗であった。一方[[西ゴート族]]や[[ヴァンダル族]]はすでにキリスト教に改宗していたが、その宗派は[[アリウス派]]であった。当時のガリア住民は大部分カトリックであったため、クロヴィスのカトリック改宗はガリア領内のローマ系市民との絆を強化するものであった。498年に[[ランス (マルヌ県)|ランス]]で戴冠式をおこなった。