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[[1996年]]の総選挙は八代と[[沢たまき]]によるタレント議員同士の争いとなった。この選挙では八代が僅差で当選した。[[1999年]]の連立与党組み替え(公明党が[[連立政権|連立与党]]に加わった)を経て、八代は続く[[2000年]]の[[第42回衆議院議員総選挙|総選挙]]でも再選された。
 
この2000年選挙から連立を組む自民党との選挙協力を全[[小選挙区制|小選挙区]]において行った。ほとんどの小選挙区は自民党公認候補を公明党が推薦するが、公明党に小選挙区当選者を割り振るため、公明党公認候補が出馬し自民党は候補を出さず公明候補を党をあげて推薦する自公協力区を、大都市圏(東京と[[関西]])にてごく限られた数だけ設定する手法を取った。その結果、関西では公明党公認候補が全選挙区で当選したが、東京ではこの手法は成功しなかった。
 
東京での自公協力の失敗の原因を、「'''党員も含めた自民党支持層の非協力'''」にあるとみた公明党は、東京小選挙区での公明公認候補を1選挙区だけに絞り、絶対に落選させてはならない議員を候補として送りこむという戦術を取った。公明党は、次期党首と目されていた[[太田昭宏]]を候補とし、自公協力区として自民党が選んだのがこの東京12区であった。
 
自民の現職(八代)との調整上、常に同区を公明党に明け渡すのでなく[[コスタリカ方式]]によって、自民八代と公明太田が小選挙区と比例区に順繰りに立候補するという合意が自公両党間でなされた。当区が選ばれた理由には、八代は[[山梨県|山梨]]出身の[[落下傘候補]]であること、地元区議や都議との関係も薄い他党からの移籍者であることなど、党内および選挙区内での基盤が弱かったことがあげられる。この合意がなされた[[2003年]]の[[第43回衆議院議員総選挙|総選挙]]は、前回当選の八代は[[比例東京ブロック|比例代表]]にまわり、小選挙区は太田が立候補、当選した。
 
しかし、その後の[[郵政民営化法|郵政民営化法案]]採決で八代は[[党議拘束|党議]]に反して民営化反対票を投じたため、[[2005年]]の[[第44回衆議院議員総選挙|総選挙]]では党決定通り八代は公認を受けられず[[無所属]]での出馬となり、コスタリカ方式は崩れた。そこで、この選挙でも引き続き太田が自公を代表する候補として臨み、再選された。
 
[[与党]]への逆風が強くなった[[2009年]]の[[第45回衆議院議員総選挙|総選挙]]では、前回まで立候補していた[[藤田幸久]]が[[参議院]][[茨城県選挙区]]に鞍替えし当選したため民主空白区となっていたが、[[参議院比例区]]から青木が鞍替えで立候補し当選した。太田は比例代表への[[重複立候補制度|重複立候補]]をしていなかったため議席を失った。
 
[[2012年]]の[[第46回衆議院議員総選挙|総選挙]]では太田が青木を大差で破り返り咲いたが、選挙前に民主を離党し[[日本未来の党]]に参加していた青木も比例東京ブロックで[[復活当選]]した。
 
[[2014年]]の[[第47回衆議院議員総選挙|総選挙]]では前回出馬の太田、青木、池内の他に元[[航空幕僚長]]の[[田母神俊雄]]が[[次世代の党]]より出馬。この選挙では2万票以上得票数を減らしたものの太田が再選した。[[日本共産党]]の[[池内沙織]]は安倍政権への全面対決を掲げてやや得票数を伸ばし、共産党が獲得議席数を増やした比例東京ブロックで復活当選した。[[生活の党と山本太郎となかまたち|生活の党]]に参加した青木は得票数を減らし、生活の党は比例東京ブロックで議席を獲得できず比例復活もならず議席を失った。田母神は公明党並びに太田への批判を展開し、公明党に批判的な[[保守]]層への浸透を図ったが最下位で落選し、次世代の党は比例東京ブロックで議席を獲得できず[[比例復活]]もならなかった。
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