「おろしや国酔夢譚」の版間の差分

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== あらすじ ==
[[天明]]2年([[1782年]])、[[伊勢国|伊勢]]を出発し、光太夫ら17人を乗せた船「神昌丸」は、江戸へ向かう途中に嵐に遭い、舵を失って漂流中に1人を失いながらも、8か月の漂流後に当時は[[ロシア帝国]]の属領だった[[アムチトカ島]]に漂着した。この島で7人の仲間が次々と死んでいくが、残った9人は現地のロシア人の言葉や[[アレウト族|アムチトカ原住民]]の言葉を習得しながら帰国の道を模索する。漂着から4年後、現地の[[ロシア人]]たちと協力し流木や壊れた船の古材を集めて船をつくり、[[カムチャッカ半島]]の[[:ru:Усть-Камчатск|ニジネカムチャック]](Nizhne-Kamchatsk)へ向かう。だがここで待っていたのは島とは比較にならない厳しい冬将軍で、さらに3人を失うのであった。
 
残った6人は、現地政庁の役人たちと共に[[オホーツク]]から[[ヤクーツク]]経由で[[レナ川]]沿いに[[イルクーツク]]へと向かうが、1人が重い凍傷で片足を失ったため帰国が不可能と悟りロシアに[[帰化]]する。また、さらに1人が病死する。この地の政庁に帰国願いを出しても届かないことに業を煮やした光太夫は、当地に住んでいた[[スウェーデン系フィンランド人]]の[[博物学者]][[キリル・ラクスマン|キリル・ラックスマン]]<!--(『北槎聞略』にあわせてラックスマンと表記)-->の助けを借りて、ラックスマンと共に(漂流民としては一人で)、女帝[[エカチェリーナ2世]]に帰国願いを出すために、ロシアの西の端の帝都[[サンクトペテルブルク|ペテルブルグ]]へ向かった。数か月後、[[エカテリーナ宮殿|夏の宮殿]]でいよいよ女帝への謁見が決定した。