「憲兵 (日本軍)」の版間の差分

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== 憲兵に対する評価 ==
陸軍軍人軍属違警罪処分例<ref>明治19年勅令第44号。</ref>により、陸軍の軍人・軍属の犯した違警罪は憲兵部(憲兵部が置かれていない地では警察署)で処分できたこともあり、一般兵にとっては監軍護法のため何かとやかましいことを言う「目の上の[[タンコブ|瘤]]」的存在であり、またその職務上から高圧的態度をとる憲兵もいたため、イメージは良くなかった。
 
他方、憲兵は、司法警察権も掌ることから、[[治安警察法]]及び[[治安維持法]]等を、一般警察同様に一般国民に対しても適用する立場であり、次第に反戦思想取締りなど、国民の思想弾圧にまで及ぶこととなった。1923年9月の[[関東大震災]]直後に東京憲兵隊渋谷憲兵分隊長兼麹町憲兵分隊長、甘粕正彦憲兵大尉が[[大杉栄]]、[[伊藤野枝]]及び橘宗一を殺害するという事件を起こした([[甘粕事件]]、事件発覚後、憲兵隊の捜査により起訴された甘粕大尉及び森慶次郎憲兵曹長は[[軍法会議]]で有罪判決を受けて服役、また監督責任を問われて憲兵司令官[[小泉六一]]少将らは[[停職]]となっている)。[[帝国議会]]の開会中は10名ほどの特務憲兵が詰め、議員の発言を確認していた。事前に政府や軍部に批判的な[[政党]]・[[議員]]の発言内容や攻撃材料を入手する事も憲兵の任務だったと言う。[[東條英機]]の[[内閣総理大臣|首相]]在任中には憲兵をして反対派([[中野正剛]]などが知られている)を圧倒し、東條もこれを積極的に活用した事からこれらを「東條憲兵」と呼んだ。戦後、東條は周囲に「憲兵を使いすぎた」ともらしたという。大戦末期には戦争終結、和平工作をしていた[[吉田茂]](元駐英大使、戦後、首相)のもとにスパイを送り込み、陸軍刑法第99条(造言飛語罪)の容疑で吉田らを逮捕した([[ヨハンセングループ]])。さらに憲兵は戦中の占領地治安維持の任務を負っており、特に満州においては逮捕した容疑者を裁判に付さず憲兵隊が独断で処刑する「厳重処分」が横行した。