「三河水野藩」の版間の差分

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[[水野勝成]]の弟・[[水野忠胤]]は[[関ヶ原の戦い]]において戦功を挙げ、なおかつ[[徳川家康]]の従弟に当たるということから、戦後に三河国内に1万石を与えられ、[[大名]]として諸侯に列した。その後、忠胤は[[大番頭]]となる。
 
しかし[[慶長]]14年([[1609年]])9月、[[遠州]][[浜松藩]]5万石の藩主・[[松平忠頼]](忠胤の従弟)を招いて茶会を開いていたとき、忠胤の与力である久米左平次と服部半八郎の両名が囲碁の勝敗をめぐって口論、そして刃傷事件にまで及んでしまったのである。この争いを見て忠頼は両名の仲裁に入ったのだが、逆にその仲裁に切れてしまった左平次が、よりにもよって忠頼を殺害してしまったのである。
 
家康はこの忠胤の与力による忠頼殺害事件、並びに以前、忠胤が[[伏見城]]で起こしていた不手際などの責任を理由に、同年10月16日に切腹を命じた。これにより三河水野藩は廃藩となったのである
 
== 歴代藩主 ==
=== 水野(みずの)家 ===
[[譜代]]。1万石。
#[[水野忠胤]](ただたね)<従五位下。市正>
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*[[藩の一覧]]
 
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[[Category:藩]]
[[Category:三河国|藩みすの]]
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[[Category:愛知県の歴史]]