「F-CK-1 (航空機)」の版間の差分

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当初、老朽化した[[F-5 (戦闘機)|F-5]]戦闘機を更新するため、[[中華民国|台湾]]総統府はアメリカ合衆国に [[F-16 (戦闘機)|F-16]]戦闘機の輸入を打診したが、[[アメリカ合衆国議会|アメリカ議会]]が[[中華人民共和国]]を刺激するとしてこれを拒否した。その代替案として、アメリカ側はF-16のダウングレード版の F-16/79、あるいは [[F-5 (航空機)|F-5]]のアップグレード版の[[F-20 (戦闘機)|F-20]]を台湾に提案するが、これは[[中華民国空軍|空軍]]の要求を満たさないとして拒否、結局台湾は戦闘機の自主開発を決定する。開発主契約者は航空工業發展中心(現・漢翔工業株式会社:AIDC)で、アメリカ政府のもとアメリカ軍事産業による技術的支援に関しては容認し、その結果[[ジェネラル・ダイナミクス]](現[[ロッキード・マーティン]])、[[ハネウェル|ギャレット]]、[[ウェスティングハウス・エレクトリック|ウェスティングハウス]]が開発協力することとなった。
 
開発は[[1982年]]より開始される。F-16レベルの戦力を目指したため、機体はどことなくF-16の雰囲気があるが、おおむね当時の各国で開発された小型戦闘機・軽戦闘機と共通したスタイルとなっている。[[1988年]]([[中華民国暦|民国]]77年)に当時の[[蒋経国]]台湾総統の名を取り、経国と名づけられた。この「経国」という彼の名は魏の文帝[[曹丕]]の「[[文章経国]]」から取られているため、救国の大事業として進められた戦闘機開発という意味も込められている。[[1989年]](民国78年)[[5月28日]]に初飛行を達成。[[1994年]](民国83年)に軍が制式採用した。
 
当初、256機が配備される計画であったが、その後情勢が変わりアメリカ議会がF-16の輸出を許可したため、この機体の製造数は130機に減らされることとなった。また、アメリカ政府との協定により、台湾がF-CK-1を他の国や地域に輸出することは不可能である。しかし、自国での兵器開発・生産能力を保持し、輸入の際も相手側に主導権を取られない力を得たという点で、本機の存在意義は大きかったといえる。