「アマチュアリズム」の版間の差分
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'''アマチュアリズム'''とは、[[オリンピック]]運動の創始者である[[ピエール・ド・クーベルタン]]が、その運動の理念として提唱した思想で、「オリンピックの出場者は、[[スポーツ]]による金銭的な報酬を受けるべきではない」とする考え方。長らくオリンピックやスポーツ界において支配的な思想であったが、[[1970年代]]以降はスポーツ界の現実と適合しなくなり、すでにオリンピック憲章からは「アマチュア(リズム)」という単語は削除されている。世界的なスポーツ界の流れとしても事実上存在しないに等しいが、従来「[[アマチュア]]」の領域とされてきたスポーツ界の関係者([[高校野球]]や[[都市対抗野球]]、[[ラグビー]]など)には今でもこの言葉や思想を用いる人物も根強く存在する。
==起源==
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クーベルタンはこうしたアマチュアの思想に準拠する一方、[[古代オリンピック]]においては当初勝者は月桂の冠以外の栄誉を受けなかったことに範を取り、オリンピックの参加者はスポーツによる金銭的な報酬を受けるべきではないとした。
[[IOC]]は[[1901年]]にアマチュア規定を統一した。それによるとアマチュアでないものとして
#金のために競技するもの #プロ選手とともに競技するもの #体育教師・トレーナー #マネキン的競技者があげられた。 このうち、 ==ジム・ソープ事件==
初期のオリンピックにおけるアマチュアリズムに関わる事件としては、アメリカの陸上競技選手だった[[ジム・ソープ]]のケースが挙げられる。[[1912年]]の[[ストックホルムオリンピック]]の十種競技と五種競技の金メダリストとなったソープは、野球の[[マイナーリーグ]]でのプレー歴があった(1909年と1910年に、週給25ドルで出場)ことが大会終了後明るみに出たため、翌1913年に金メダル剥奪・記録抹消という厳しい処分を受けた。(70年後の[[1983年]]にIOCはソープの復権を決定し、金メダリストとして認定された。ソープの死去から30年後のことである)
==休業補償問題==
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==アベリー・ブランデージとアマチュアリズムの変容==
第4代IOC会長(
彼がIOC会長に就任した年に開催された[[ヘルシンキオリンピック]]から[[ソ連]]がオリンピックに参加する。このソ連をはじめとする東欧の社会主義諸国は、それらの国においては興行としてスポーツを行う者がいないため、スポーツ選手はすべてアマチュアであると主張していた。しかし、実際には国家によって選抜されたメンバーを専門的にトレーニングするシステムが作られており、彼らはもっぱらトレーニングのみを行っていた。事実上プロに等しいこうした選手は「ステート・アマ」と呼ばれるようになる。
また、上記の休業補償を認めたことから、西側の選手も日常的にスポーツしか行っていない者が多くを占めるようになり、[[1971年]]のIOC総会では[[ミュンヘンオリンピック]]の組織委員長から、すべての国の選手が「ステート・アマ」化しているという質問状が提出されるに至った。
しかし、ブランデージはなおもアマチュアリズムの維持にこだわった。アルペンスキーを中心に、用具メーカーからの供与とその実質的な宣伝を選手が行っていた冬季大会について彼は批判的であり、冬季オリンピックは将来廃止されるべきであると主張していた。そして、IOCは[[札幌オリンピック]]の際に、オーストリアのアルペンスキー選手である[[カール・シュランツ]]に対して、「名前や写真を広告に使わせた」という理由でアマチュア資格違反とみなし、開会式の前に選手村から追放する処分を行った。しかし、これは多くの目には見せしめの処分と映り、結果的にこの年で退任したブランデージの最後のあだ花となった。
IOC会長が5代目の[[キラニン卿]]に交代して早々の[[1974年]]のIOC総会で、ついにオリンピック憲章からアマチュア規定が削除されるに至った。
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