「カール6世 (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== スペイン継承戦争 ===
[[1700年]]、従兄の[[スペイン]]王[[カルロス2世 (スペイン王)|カルロス2世]]が病死した。カルロス2世には男児がなかったため、[[スペイン・ハプスブルク朝|スペイン・ハプスブルク家]]は断絶した。そのため、カールの父レオポルト1世は、カルロス2世の後継者としてカールを送ろうとした。しかしカルロス2世は生前、後継者として[[フランス王国|フランス]]王[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の孫アンジュー公フィリップ([[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]として即位)を推薦していたため、ここに[[スペイン継承戦争]]が起こった。これは[[イングランド王国|イングランド]]や[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ共和国]]などが、フランスがスペインを併合することで欧州の勢力均衡が崩れることを恐れたためである<ref>[[#友清、P12|友清]], pp.12- P26、26.</ref><ref>[[#マッケイ、P61|マッケイ]], -pp. P67。61-67.</ref>。
 
カールは[[1703年]]に同盟国[[ポルトガル王国|ポルトガル]]へ渡り、[[1705年]]にイングランドの将軍[[チャールズ・モードント (第3代ピーターバラ伯)|ピーターバラ伯]]が[[バルセロナ]]を占領すると([[バルセロナ包囲戦 (1705年)|第1次バルセロナ包囲戦]])、バルセロナに入ってカルロス3世を称し、[[マドリード]]のフェリペ5世と対峙した。[[1706年]]にスペイン軍に包囲されたバルセロナを守り抜き([[バルセロナ包囲戦 (1706年)|第2次バルセロナ包囲戦]])、ポルトガルから進軍してマドリードを落としたイングランドの将軍[[ヘンリー・デ・マシュー (ゴールウェイ伯)|ゴールウェイ伯]]・ピーターバラと合流した。しかし、フェリペ5世にマドリードを奪い返され、翌[[1707年]]にピーターバラがイングランドへ召還、ゴールウェイがフランスの将軍[[ジェームズ・フィッツジェームズ (初代ベリック公)|ベリック公]]に[[アルマンサの戦い]]で大敗するとスペインのほとんどを制圧され、劣勢になった。
 
[[1708年]]、[[ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領|ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル家]]の[[エリーザベト・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル (1691-1750)|エリーザベト・クリスティーネ]](兄ヨーゼフ1世の皇后[[アマーリア・ヴィルヘルミーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=カレンベルク|アマーリア・ヴィルヘルミーネ]]と同族)とバルセロナで婚礼を挙げ、[[1710年]]に[[グレートブリテン王国|イギリス]]の将軍[[ジェームズ・スタンホープ (初代スタンホープ伯)|ジェームズ・スタンホープ]]とオーストリアの将軍[[グイード・フォン・シュターレンベルク]]が反撃してマドリードを再占領したが、フェリペ5世に再び奪回された上、フランスから援軍を率いた[[ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボン|ヴァンドーム公]]が同盟軍を急襲、スタンホープは[[ブリウエガの戦い]]で捕らえられシュターレンベルクも[[ビリャビシオーサの戦い]]で敗北、フェリペ5世の優位は決定的になった<ref>[[#友清、P74|友清]], pp. 74-76, P76、P156 156-159, P159、P177 177-179, P179、P197 197-199, P199、P292 292- P294。294.</ref>。
 
1711年、兄が死去すると情況が大きく変わった。兄には息子がなく、皇帝選出のためドイツへ戻ったカールがカール6世として帝位を継ぐことになったのである。こうなると、もしカール6世がスペイン王位も継承すれば、かつての[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]](スペイン王カルロス1世)のような欧州の広大な領土に君臨する強大な君主の出現となり、やはり勢力均衡が崩れてしまうことになる。そこで[[1713年]]、イギリスなどはフランスとスペインが併合されないことを条件として、フェリペ5世の即位を認めることにして[[ユトレヒト条約]]を結んだ。こうしてスペイン王位を断念せざるを得なくなり、[[1714年]]にオーストリアもフランス・スペインと[[ラシュタット条約]]を締結した。残されたバルセロナは[[1714年]]にフェリペ5世に落とされている([[バルセロナ包囲戦 (1713年-1714年)|第3次バルセロナ包囲戦]])<ref>[[#友清、P303|友清]], - P304、P314pp. 303-304, P315、P362 314-315, P366、362-366.</ref><ref>[[#マッケイ、P171|マッケイ]], - P176、P185pp. 171-176, P192。185-192.</ref>。
 
=== 皇帝在任期 ===
皇帝即位後は対外戦争に力を注ぎ、父の代から続いていたハンガリーの[[ラーコーツィ・フェレンツ2世]]の[[ラーコーツィの独立戦争|反乱]]を終息させ、[[南ネーデルラント]]から[[ミラノ公国]]などに勢力を拡大する。また[[サヴォイア公国]]との間で[[シチリア王国|シチリア]]と[[サルデーニャ島|サルデーニャ]]の交換が成立し、その際サヴォイア公[[ヴィットーリオ・アメデーオ2世]]に[[サルデーニャ王国|サルデーニャ王]]の称号を認めた。更に[[1716年]]、[[オスマン帝国]]との間に[[墺土戦争 (1716年-1718年)|墺土戦争]]が起こると[[バルカン半島]]に[[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|プリンツ・オイゲン]]を派遣してオスマン帝国[[スルターン|スルタン]]・[[アフメト3世]]と戦い勝利、[[1718年]]の[[パッサロヴィッツ条約]]でオスマン帝国から[[ベオグラード]]を奪い、[[ハプスブルク君主国|ハプスブルク帝国]]の最大版図を築き上げた。
 
しかし、スペイン領イタリアを巡ってスペインとの対立は続き、[[四カ国同盟戦争]]ではスペインに勝利したが、[[大北方戦争]]では[[ロシア・ツァーリ国|ロシア]]の[[ツァーリ]]・[[ピョートル1世]]の[[バルト海]]進出を抑えるためイギリス王兼[[ハノーファー王国|ハノーファー選帝侯]][[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]及び[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド]]王兼[[ザクセン選帝侯領|ザクセン選帝侯]][[アウグスト2世 (ポーランド王)|アウグスト2世]]と同盟を結んだものの、その後消極的な姿勢を取ったためイギリスが離反して[[1721年]]にフランス・スペインと同盟を結びオーストリアは孤立したが、[[1725年]]にスペインと[[ウィーン条約 (1725年)|ウィーン条約]]を締結してそれまでの対立を解消、[[1726年]]にオイゲンの尽力でロシア・[[プロイセン王国|プロイセン]]と同盟を締結して孤立から脱した。[[1727年]]からスペインとイギリスの小規模な戦争が行われ[[1729年]]に[[セビリヤ条約 (1729年)|セビリヤ条約]]で終結するとスペインとの関係は終わったが、イギリスと新たに[[1731年]]に[[ウィーン条約 (1731年)|ウィーン条約]]を締結して同盟を結び直した<ref>[[#成瀬、P21ら編|成瀬ら編]], -pp. P24、21-24.</ref><ref>[[#マッケイ、P207|マッケイ]], - P236、P276pp. 207-236, P297。276-297.</ref>。
 
ハプスブルク家ではそれまで所領の分割相続が行なわれ、家領の統治の一体性が損なわれてきた。そのためカール6世は[[1713年]]、[[国事詔書]]を出して領土の分割禁止と長子相続を決定した。この政策で全領土の支配層及び諸国の承認を求め、ハンガリーは貴族の特権を承認、ドイツ諸侯は[[1732年]]に承認、イギリスは東インド会社の解散と引き換えに[[1731年]]に、フランスは[[1733年]]から[[1735年]]の[[ポーランド継承戦争]]で[[ロレーヌ公国]]を手放すことで承認を取り付けた。
 
しかし妃との間にはなかなか子に恵まれず、ありとあらゆる治療を試み、ついに[[1716年]]にカール6世の唯一の男児レオポルトが誕生するが1歳に満たずに夭折した。その後は女児しか誕生せず、長女のマリア・テレジアを後継者にするしかなくなった。このため[[1724年]]、再び国事詔書を出してマリア・テレジアを家領の相続者に定めた<ref>[[#成瀬、P25ら編|成瀬ら編]], -pp. P26、25-26.</ref><ref>[[#南塚、P134編|南塚編]], -pp. P138、134-138.</ref><ref>[[#マッケイ、P193|マッケイ]], -pp. P221、193-221.</ref>。
 
=== 晩年 ===
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*家臣の忠告を無視し、娘に政治家としての教育を施さず、大した軍事力を残さなかったために、各国から侵攻を受けた際、マリア・テレジアは非常に苦労した。
*死の直前まで男児誕生(ただし娘マリア・テレジアの子=孫)を夢見ていた。なお、カール6世の死亡時にマリア・テレジアは第4子を懐妊中で、この子こそ待望の男児(後の皇帝[[ヨーゼフ2世|ヨーゼフ]])であったが、その誕生は1741年3月であった。
*プロイセン王国のフリードリヒ2世が王太子時代に確執関係にあった父[[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]]から廃嫡の憂目にあったのを見かねて、自ら調停に乗り出して父子関係を修復させたことがある<ref>[[#菊池、P191|菊池]], -pp. P192。191-192.</ref>。
 
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=[[成瀬治]][[山田欣吾]][[木村靖二]]編『世界歴史大系 |title=ドイツ史 2 1648年-1890年 |date=1996-07 |publisher=[[山川出版社]]、1997年。 |series=世界歴史大系 |isbn=978-4-634-46130-7 |ref=成瀬ら編 }}
* {{Cite book|和書|editor=[[南塚信吾]]編『新版 世界各国史19 |title=ドナウ・ヨーロッパ史 |publisher=山川出版社 |series=新版 世界各国史 19 |date=1999年。-03 |isbn=978-4-634-41490-7 |ref=南塚編 }}
* {{Cite book|和書|author=[[菊池良生]]編『 |title=傭兵の二千年史 |publisher=[[講談社]] |series=[[講談社現代新書]] 1587 |date=2002年。-01 |isbn=978-4-06-149587-6 |ref=菊池 }}
* {{Cite book|和書|author=[[友清理士]] |title=スペイン継承戦争 <small>マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史</small>』 |publisher=[[彩流社]] |date=2007年。-02 |isbn=978-4-7791-1239-3 |ref=友清 }}
* [[デレック・{{Cite book|和書|last=マッケイ]]著、 |first=デレック |others=[[瀬原義生]]訳 |title=プリンツ・オイゲン・フォン・サヴォア{{smaller|- 興隆期ハプスブルク帝国を支えた男-}}』[[ |publisher=文理閣]]、 |date=2010年。-05 |isbn=978-4-89259-619-3 |ref=マッケイ }}
 
== 関連項目 ==
{{commons&cat|Carolus VI, Imperator Romanus Sacer|Charles VI, Holy Roman Emperor}}
* [[カールス教会]]
 
{{神聖ローマ皇帝}}
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{{先代次代|[[チェシン公国|テシェン(チェシン)公]]|1711年 - 1722年|[[ヨーゼフ1世|ヨゼフ1世]]|[[レオポルト (ロレーヌ公)|レオポルト]]}}
 
{{DEFAULTSORTデフォルトソート:かる6}}
[[Category:神聖ローマ皇帝]]
[[Category:オーストリア大公]]