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'''パーシー・フェイス'''('''Percy Faith''', [[1908年]][[4月7日]] - [[1976年]][[2月9日]])は[[アメリカ合衆国]]の[[作曲家]]、[[編曲家]]、[[指揮者]]、[[音楽プロデューサー]]である。[[カナダ]][[トロント]]生まれ、[[イージーリスニング]]や[[ムード音楽]]分野で著名である
 
== 概要 ==
子供8人兄弟頃から長男として生まれ、幼少期より音楽に親しみ[[ヴァイオリン]][[ピアノ]]を習い、将来は演奏して[[クラシック音楽]]の[[ピアニスト]]を目指していた。しかしすが、[[1926年]]の18歳時に、[[マッチをいじっていた]]からが誤って自分の洋服へ着をつけてしまい、そばにいた兄であパーシー両手でそれをもみ消した為に大事。これは至らなかったものの、この時彼はより両手に大火傷をしたために負い、ピアニストを断念し、その後方向を直ぐに作曲の方向に換。向して編曲手法も共に学び頭角を現す。当初トロントで[[ホテル]][[オーケストラ]]などを指揮し、[[1933年]]に[[カナダ放送協会]]合わせ専属の編曲兼指揮者とし猛勉強契約し、担当番組「ミュージック・バイ・フェイス」は好評で7年もなくこ続いた。[[1940年]]にアメリカへ招聘されて「カーネーション・コンテンティッド・アワー」指揮者分野で頭角急死による代役現し始3週間務、好評により契約を延長してアメリカに留まり約2年後にアメリカの[[市民権]]を得る。
 
録音活動は[[1944年]]から録音作品の制作を開始し、そのアメリカ・[[デッカ]]の[[A&R]]として活動するが、[[1950年]]に当時{{仮リンク|ミッチ・ミラー|en|Mitch Miller}}に請われてアメリカ[[コロムビアレコード]](現[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]])の[[ミッチ・ミラー]]によってそこへ移籍し、同社の東部担当[[ミュージカル]][[ディレクター]]として活動を始める。その中では、自身も[[1975年]]までムード・ミュージック・[[オーケストラ]]として活動も行い、[[1975年]]までにその録音活動は続き、その間、「[[{{仮リンク|デリカード]]|en|Delicado}}[[{{仮リンク|ムーラン・ルージュの歌]]|en|Song from the Mouli Rouge}}「[[夏の日の恋]]」の3曲が[[ヒットチャート#北アメリカ|全米ヒットチャート]]1位を3曲も送り出した。特なる。「夏の日の恋」は、当時水と油の関係と言われた[[マントヴァーニ]]様なムード・ミュージックのサウンド当時流行っていた中の[[ロックンロール]]のサウンド上手く見事に融合させたのが功を奏し、[[1960年]]に9週連続全米ヒットチャートで9週連続1位を記録、になり同年の[[グラミー賞]]を受賞している又、ミュージカルディレクターとして[[トニー・ベネット]]、[[ドリス・デイ]]、[[ローズマリー・クルーニー]]、[[ジョニー・マティス]]等の編曲バック・オーケストラ指揮の仕事も行ったを務めている
初めはトロントの[[ホテル]]の[[オーケストラ]]等の指揮を行い、[[1933年]]、[[カナダ放送協会]] (CBC) と編曲、指揮者としての専属契約を結び、担当番組「ミュージック・バイ・フェイス」が人気を呼んで、7年間も続いた。
 
[[日本へは、1960年]]がに単身でめての来日で、その時は単身でして日本のオーケストラを指揮演奏たという。自らのオーケストラを率いてのによる来日公演は[[1966年]]、[[1971年]]、[[1973年]]、[[1974年]]、[[1975年]]5回ありこの内、[[1966年]]の来日公演は、同年6月に[[日本放送協会|NHK]]にてが[[NHK総合テレビ(カラー放送)ジョン|総合テレビ]][[NHK-FM放送(ステレ|FMラジ)にて]]で放送され(映像資料は残っていないが音声資料に於いては残存が不明)、更に[[1974年]]の公演の模様はライブ録音され、アナログ[[レコード#LP盤|LPレコードの諸形態|LP]]にて[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|CBSソニー]]から発売されたしている
[[1940年]]にアメリカから声が掛かり、「カーネーション・コンテンティッド・アワー」の指揮者の急死による代役を3週間務めた所大好評となり、契約延長でそのまま番組共々アメリカに留まることになった。その約2年後にはアメリカの[[市民権]]を得る。
 
[[1928年]]に妻メアリー<ref>[[1909年]]11月24日生まれ、[[1997年]]11月27日[[ロスアンゼルス]]で死去。</ref>と結婚してマリリンとピーター二人の子を儲け、[[1976年]]2月9日に[[カリフォルニア州]]{{仮リンク|エンシーノ|en|Encino}}で[[がん]]により死去し、同州[[カルバーシティ]]{{仮リンク|ヒルサイド記念公園墓地|en|Hillside Memorial Park Cemetery}}に埋葬されている。
録音活動は[[1944年]]から開始し、その後アメリカ・[[デッカ]]の[[A&R]]として活動するが、[[1950年]]に当時アメリカ・[[コロムビアレコード]](現[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]])の[[ミッチ・ミラー]]によってそこへ移籍し、同社の東部のミュージカル・[[ディレクター]]として活動を始める。その中では、自身のムード・ミュージック・オーケストラとしての活動も行い、[[1975年]]までにその録音活動は続き、その間、「[[デリカード]]」「[[ムーラン・ルージュの歌]]」「[[夏の日の恋]]」の[[全米ヒットチャート]]1位を3曲も送り出した。特に「夏の日の恋」は、当時水と油の関係と言われた[[マントヴァーニ]]の様なムード・ミュージックのサウンドと当時流行っていた[[ロックンロール]]のサウンドを上手く見事に融合させたのが功を奏し、[[1960年]]に9週連続全米ヒットチャートの1位を記録、同年の[[グラミー賞]]を受賞した。又、ミュージカル・ディレクターとして、[[トニー・ベネット]]、[[ドリス・デイ]]、[[ローズマリー・クルーニー]]、[[ジョニー・マティス]]等の編曲、バック・オーケストラの指揮の仕事も行った。
 
日本では現在ソニー・ミュージックエンタテインメント、および[[ビクターエンタテインメント]]から“パーシー・フェイス”名義の[[CD]]が発売されているが、ビクターからの発売分はパーシー死後指揮者のもとたに録音されたもの内容ある(ビクター発売分では英語のアーティスト名英文表記“Percy Faith Orchestra”の前に“The”えられている
[[1960年]]が初めての来日で、その時は単身で日本のオーケストラを指揮したという。自らのオーケストラを率いての来日公演は[[1966年]]、[[1971年]]、[[1973年]]、[[1974年]]、[[1975年]]の計5回あり、この内、[[1966年]]の来日公演は、同年6月に[[日本放送協会|NHK]]にて総合テレビ(カラー放送)とFM放送(ステレオ)にて放送され(映像資料は残っていないが、音声資料に於いては残存が不明)、更に[[1974年]]の公演の模様はライブ録音され、アナログ[[レコード#レコードの諸形態|LP]]にて[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|CBSソニー]]から発売された。
 
[[1976年]][[2月9日]]、[[カリフォルニア州]]エンシーノにて癌で死去。
 
日本ではソニー・ミュージックエンタテインメント、および[[ビクターエンタテインメント]]から“パーシー・フェイス”名義のCDが発売されているが、ビクターからの発売分はパーシーの死後、別の指揮者のもと新たに録音されたものである(ビクター発売分では、英語のアーティスト名の“Percy Faith Orchestra”の前に“The”が加えられている)。
 
== ディスコグラフィ(アルバムのみ) ==