「アルベール・ルブラン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
Frozen-mikan (会話 | 投稿記録)
m リンク修正: ポール・ドゥメール
23行目:
1871年8月29日[[ムルト=エ=モゼル県]]、メルシー=ル=オートの農家に生まれる。[[エコール・ポリテクニーク]]、[[パリ国立高等鉱業学校]]をそれぞれ優秀な成績で卒業する。その後、[[ヴズール]]と[[ナンシー]]で鉱山技師として働く。しかし、政治への関心が抑えきれず、1900年29歳の時に鉱山技師を辞し、総選挙に共和左派から立候補し当選する。1912年[[フランス海外省|植民相]]。1913年[[国防省 (フランス)|陸相]]兼自由県担当相。1917年に民主同盟結成に加わり、1920年[[ムルト=エ=モゼル県]]から国会議員に選出される。1925年から1929年まで[[元老院]](上院)副議長を経て、1931年元老院議長に選出された。
 
1932年、{{仮リンク|[[ポール・ドゥメール|en|Paul Doumer}}]]が暗殺され後継大統領となり、1939年には再選されたが、国際情勢は[[アドルフ・ヒトラー]]の台頭によって風雲急を告げ、大統領として手腕を発揮できる状況とは程遠かった。1940年フランスは[[ナチス・ドイツ]]に降伏。ルブランは大統領職を公式に辞任しなかったが、傀儡政権とされる[[ヴィシー政権]]が成立し、国家主席に[[フィリップ・ペタン]]が就任した。ルブランは、7月15日に[[グルノーブル]]郊外の{{仮リンク|ヴィジル|fr|Vizille}}へ避難するが、1943年8月27日には[[ドイツ軍]]に拘束され身柄を[[チロル]]に移送される。10月10日健康状態の悪化を理由にヴィジルに戻るが、引き続きドイツによる軟禁状態に置かれた。
 
1944年8月9日[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の攻勢でフランスが解放されると、ルブランも解放された。[[シャルル・ド・ゴール]]と会見し、大統領を正式に辞した。以後、政界を引退し、[[パリ]]に隠棲した。1950年3月6日パリで肺炎のため死去。
31行目:
* [http://perso.orange.fr/freysselinard/Albert%20Lebrun.htm Biographie plus complète et petite exposition virtuelle sur Albert Lebrun]
 
{{先代次代|{{FRA1870}}[[フランスの大統領|大統領]]|[[1932年]] - [[1940年]]<br />正式な辞任は1944年|{{仮リンク|[[ポール・ドゥメール|en|Paul Doumer}}]]|[[ヴァンサン・オリオール]]}}
{{フランスの大統領}}