「ベルナボ・ヴィスコンティ」の版間の差分

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1368年の春、ベルナボは義弟の[[ヴェローナ]]僭主[[カンシニョーリオ・デッラ・スカラ|カンシニョーリオ]]と共同で、再度マントヴァを攻撃した。1371年、ベルナボはマントヴァ側に占拠した[[レッジョ・エミリア]]の領有を認めさせた。続いて[[フェラーラとモデナの君主一覧|フェラーラとモデナ]]を治める[[エステ家]]に攻撃を仕掛けたことで、教皇[[グレゴリウス11世 (ローマ教皇)|グレゴリウス11世]]の怒りを買った。1373年、ベルナボと兄ガレアッツォに対する教皇の破門宣告がまたも出された。ベルナボは1378年、[[ヴェネツィア共和国]]と同盟を結んで[[ジェノヴァ共和国]]を攻めて[[キオッジャ戦争]]を引き起こすが、1379年9月にヴァル・ビサーニョ(Val Bisagno)で敵軍に敗れた。
 
ベルナボはトレッツォ・スッラッダに[[トレッツォ橋]]を建設させたり、ミラノでの[[ペスト]]の蔓延を精力的に防いだ<ref>Rosemary Horrox, ''The Black Death''(1994) III.65, p 203.</ref>。しかしベルナボの専制統治と重税は多くの領民の怨嗟の的となっており、彼は1385年に甥で娘婿の[[ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ|ジャン・ガレアッツォ]]によって廃位された。そしてトレッツォ・スッラッダの城に閉じ込められ、同年12月に[[毒殺]]された。その末路は[[ジェフリー・チョーサー]]の『[[カンタベリー物語]]』「修道僧の話」において、暴君必滅の典型例として紹介されている<ref>チョーサーは1378年、[[イングランド君主一覧|イングランド王]][[リチャード2世 (イングランド王)|リチャード2世]]の命令を受け、[[百年戦争]]にイングランド側について参戦するようベルナボを説得する外交任務を遂行すべく、ミラノを訪れている。</ref>。
 
死後、ベルナボの墓を飾る彫像として、彫刻家[[ボニーノ・ダ・カンピオーネ]]の手になる騎馬像が制作された。騎馬像は当初、ベルナボの墓があるサン・ジョヴァンニ・イン・コルカ地下聖堂([[:en:San Giovanni in Conca|Cripta di San Giovanni in Conca]])に置かれていたが、現在は[[スフォルツェスコ城]]にある。