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本書編纂の由来は、元朝の[[クビライ]]の統治する[[中統]]2年([[1261年]])に、[[遼]]朝と金朝の二史の編纂が審議されたことに始まる。[[朱子学]]の正統論が問題となり、なかなか史書の形式が決まらず、書物の完成には時間がかかった。
 
その後、[[順帝 (元朝)|順帝トゴン・テムル]]は[[至正]]3年(1343年)3月に遼朝、金朝、宋朝の三史の編纂を命令の後、中書右丞相トクトを都総裁官(最高責任者)、翰林学士[[欧陽玄]]ら6人を総裁官(実質上の責任者)とすると、編纂に従事させることになった。こうして至正5年(1345年)10月、遼朝、金朝、宋朝の三史が完成した。
 
中国の歴代正史がそうであるように、『金史』もまた多くの史書を下敷きとして成立している。その主だったものを挙げておくと、以下のようになる。
*皇帝関係
*:完勖の『始祖以下十帝実録』3巻のほか、歴代皇帝の実録である『太祖実録』『太宗実録』『熙宗実録』『海陵実録』『世宗実録』『章宗実録』『宣宗実録』などがある。[[衛紹王]]にだけは実録がかったため、特別に[[王鶚]]が遺事を蒐集した。
*その他の資料
*:利用した資料は多いが、特に金末の記録として名高いのが、[[元好問]]の『王辰雜編』、[[劉祁]]の『帰潜志』、王鶚の『汝南遺事』、[[楊奐]]の『天興近鑒』である。
 
金、遼、宋の三朝史の中、うち『[[宋史]]』『[[遼史]]』は慌ただしく編纂され、多くの誤りが存在する。『金史』は、
#比較的均質な『実録』が存在したこと
#元好問らの残した比較的信頼できる資料による増訂が行われたこと
#元初から何度も編纂が重ねられたこと
などから、比較的綺麗にまとめられた。そのため、宋、遼、金の三朝史の中、うち『金史』最良といわれている。しかし『金史』にも前後矛盾した記事があり、その他、ほかにも重複や史実の誤り、過度の省略、年次の逆転、人物名の混乱などが存在しないわけではない。後に、清の[[施国祁]]は『'''金史詳校'''』10巻を著すと、『金史』の4000条あまりを校勘・補正、学界に便益をもたらした。
 
『金史』の版本はいくつか存在する。既に元の至正年間に印刷出版されたほか、[[明]]朝には南北両監本('''南監本'''と北監本)が生まれ、次いで清朝にも四庫本(『四庫全書』収録)や武英殿本(『[[武英殿聚珍版]]』所収)が生まれた。<!--[[乾隆]]年間、武英殿を校勘した四庫館の臣は傑将・地名・人名などの訳名を勝手に改訳し混乱をもたらした。-->清朝の編纂物は、一般に原本の改竄があり、版本としては不適当であるとされる。
 
近代以後、[[1935年]]に[[商務印書館]]の出版した百衲本『金史』は、至正年間の135巻(そのうち80巻が初版、55巻が復刻本)と同じ構成であり、長い間最高権威としての地位を保持していた。ただ[[1975年]]に[[中華書局]]から、新式校点を施した『金史』が出版され、以後にはこの中華書局本が利用されることになった。中華書局本は、百衲本『金史』を底本に、監本・殿本などの各種版本によって校訂を加えたほか、各種資料による補正も附されたものである。また百衲本以前の書物版本と異なり、句読点を附したも画期的であった。
 
== 内容 ==