「露仏同盟」の版間の差分

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==その後の展開==
ドイツ・オーストリア・イタリアといった中欧・南欧諸国を東西から挟撃する体制によって仮想敵を三国同盟(のちの[[第一次世界大戦]]ではイタリアが離脱し、東欧諸国およびオスマン帝国などが加わる[[中央同盟]]が成立する)に設定した同盟とはいえ、同盟の成立当初においては露仏同盟と三国同盟が必ずしも戦争に至るような対立関係にあったわけではない。当時のヨーロッパ王室・帝室の常としてロシア皇帝[[ニコライ2世]]とドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世]]が縁戚関係だったこともあり、[[日清戦争]]後の[[三国干渉]](1895年)をロシア・フランス・ドイツが行ったように、各国ごとの[[国益]]によっては連携する余地も存在していた。むしろ、同盟成立当初においてロシア・フランスの両国にとって懸案だったのは[[イギリス]]であった。ロシアにとっては中央アジア・イランなどでの[[南下政策]]の妨げであり、フランスにとってはいわゆる自国の「アフリカ横断政策」の妨げとなっていたのが[[3C政策]]をとるイギリスだったからである。
 
しかし、ヴィルヘルム2世は[[世界政策]](新航路政策)を掲げ、[[艦隊法]]の制定以降イギリスとの建艦競争に突入した上、中東進出(いわゆる「[[3B政策]]」)を企図してロシアとの関係も悪化させた。その結果、露仏同盟は対独同盟としての性格を強め、のちの[[英仏協商]]、[[英露協商]]と結びついて対独包囲網の一角を担うことになった。