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[[1442年]]に選抜されて英宗の皇后となる。しかし[[土木の変]]で英宗が捕虜になると、常に泣き崩れたという。このショックから身体に障害を患い、右眼を失明し、また跛行となったともいう。[[奪門の変]]で英宗が[[重祚]]すると、再び皇后として立てられた。
 
英宗と銭皇后の間に子供は生まれなかった。このため周貴妃([[孝粛周皇后|孝粛皇后]])に朱見深([[成化帝]])が生まれると、銭皇后は皇后の地位をめぐって周氏と争った。しかし英宗は銭皇后を寵愛しており、崩御する直前には銭皇后と合葬するように遺命した。銭皇后は英宗の崩御から4年後の1468年に死去した。死後、英宗の遺命による合葬は、皇太后となった周氏の反対で実現されずに終わった。孝莊獻穆弘惠顯仁恭天欽聖睿皇后の号を追諡された。