「藤原仲麻呂」の版間の差分

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===藤原四兄弟の死と橘諸兄===
天平9年([[737年]])[[天然痘]]の流行により、[[光明皇后]]の後ろ盾として政権を担っていた父・武智麻呂と叔父の[[藤原房前]]、[[藤原宇合]]、[[藤原麻呂]]ら、いわゆる[[藤原四兄弟]]が相次いで病死し、[[藤原氏]]の勢力は大きく後退する。代わって[[橘諸兄]]が台頭して国政を担うようになった。
 
兄たちを次々と失った光明皇后は、その不安から[[聖武天皇]]へ大仏建立を強く勧めたとされる。また、天平12年に聖武天皇が[[河内国]][[大県郡]]の[[智識寺]]を訪ね、その寺の盧舎那仏から大いに影響を受けたという。この智識寺は、名が表すとおり[[智識]](同信集団)の勧進銭によって建立された寺で、それは東大寺成立の過程にも反映された<ref>五来 (1975)pp.58 - 59</ref>。