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[[正統 (明)|正統]]7年([[1442年]])、[[誠孝皇后|太皇太后張氏]]に選抜されて英宗の皇后となる。英宗を一途に愛した。[[土木の変]]では英宗が捕虜になった上、兄弟2人(銭鐘、銭欽)が戦死した。仁寿宮(先帝の妃嬪の居所)にうつされた銭皇后は、ショックから濡れた地面に寝て泣き崩れ、日々と天へ向き涙ながらに訴求し、身体に障害を患い、右眼を失明し、また足が不自由となったともいう。[[奪門の変]]で英宗が[[重祚]]すると、再び皇后として立てられた。
 
英宗と銭皇后の間に生きている子供は生まれなかった<ref>英宗の夭折した長女(重慶公主とは別人)の実母が分らない。錢皇后の可能性がある。しかし彼女の年齢順、名前、位号と諡が全部なし。</ref>。このため周貴妃([[孝粛周皇后|孝粛皇后]])に朱見深([[成化帝]])が生まれると、銭皇后は皇后の地位をめぐって周氏と争った。英宗は崩御する直前に、銭皇后を廃位しないよう遺命した。銭皇后は英宗の崩御から4年後の[[成化 (明)|成化]]4年([[1468年]])に死去した。死後、英宗の遺命による合葬は、皇太后となった周氏の反対で実現されずに終わった。'''孝荘献穆弘恵顕仁恭天欽聖睿皇后'''の[[諡号]]を贈られた。
 
== 脚注 ==