「日本社会党」の版間の差分

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総選挙後に[[非自民・非共産連立政権]]の'''[[細川内閣]]'''に与党として参加。社会党は与党第1党ではあったが、総選挙で一人負けの状態(他党は共産党が1議席を減らした他は、自民党も含めて全党が現状維持か議席増)だったため、与党第1党にもかかわらず首相を輩出することができなかったが、一方で無視できるほど力は小さくないという、連立与党内でも微妙な扱いを受けることになった。閣僚人事においても、主要閣僚は[[新生党]]や[[公明党]]、[[日本新党]]等、[[細川護熙]]をはじめ[[羽田孜]]、[[小沢一郎]]、[[市川雄一]]ら与党内の実力者が所属する政党に独占された。
 
この間、[[小選挙区制]]導入に反対した一部議員が離党し、[[新党護憲リベラル]]を結成。細川首相退陣後、新生党・公明党との対立から連立離脱も取りざたされたが、結局は同じ枠組みでの[[羽田孜]]政権参加に合意した。しかし首班選挙直後、日本社会党を除く与党各派の統一会派「[[改新]]」の結成呼びかけに反発した[[村山富市]]委員長(総選挙敗北の責任を取って山花が委員長を辞任したのを承け93年9月に就任)は羽田連立内閣から離脱を決め、'''[[羽田内閣|羽田政権]]'''は少数与党として発足した。
 
[[1994年]]6月、羽田連立与党は自民党の[[海部俊樹]]元首相を首班選に擁立、自民党内の分裂を狙ったが、自民党は村山委員長を首班とする自社連立政権樹立を決定。羽田連立与党との連携を重視する社会党議員も、自党党首首班には抗しきれず、海部に投じた議員はごくわずかにとどまった。政権奪回に執念を燃やす自民党も同様で、決選投票の結果村山の首班指名が決定し、自由民主党、[[新党さきがけ]]と連立した、[[自社さ連立政権|自社さ政権]])である'''[[村山内閣|村山政権]]'''が発足した。村山首相は、就任直後の国会演説で、安保条約肯定、原発肯定、自衛隊合憲など、旧来の党路線の180度の変更を一方的に宣言した(後に1994年9月3日開催第61回臨時党大会で追認)。この結果、社会党の求心力は大きく低下し、その後分党・解党をめぐる論議が絶えなかった。1994年12月には[[新進党]]結党により、衆議院で第2党から第3党に転落した。また消費税の税率を3%から5%にすることを[[閣議]]決定した。その後の[[1995年]]の[[第17回参議院議員通常選挙|第17回参議院選挙]]では16議席しか獲得できず、2年前の衆議院選挙に続く大敗北に終わった。
 
=== 社会民主党への改組と分裂 ===