「東ローマ帝国」の版間の差分

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; ローマ帝国
:この国家の政府や住民は自国を単に「[[ローマ帝国]] (<small>[[ラテン語]]</small>:{{lang|la|Imperium Romanum}}, <small>[[ギリシア語]]</small>:{{lang|gkm|Βασιλεία τῶν Ῥωμαίων, Basileia tōn Rhōmaiōn}})」と称していた。ローマ帝国本流を自認する彼らが「ビザンティン帝国」「ビザンツ帝国」といった呼び方をしたことはない<ref>「我々はローマ人、この国はローマ帝国である。これがビザンツ帝国のいわば憲法であった」([[井上浩一 (歴史学者)|井上浩一]]・[[栗生沢猛夫]]『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』([[中公文庫]]版 P23))</ref>。後述するように、中世になると帝国の一般民衆はギリシア語話者が多数派となるが、彼らは自国をギリシア語で「[[ローマ人]]の土地 ({{lang|gkm|Ῥωμανία, Rhōmania}})」と呼んでおり、また彼ら自身も「[[ギリシア人]] ({{lang|gkm|Ἕλληνες, Hellēnes}})」(「ギリシア人という言葉はビザンツ時代は蔑視語で、異教徒や偶像崇拝者を意味したとされる<ref>尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』[[学校法人東海大学出版会|東海大学出版会]]、1999年、p.1</ref>)ではなく「[[ローマ人]] ({{lang|gkm|Ῥωμαίοι, Rhōmaioi}})」を称していた。
; 東ローマ帝国
:古代のローマ帝国はあまりに広大な面積を占めていたため、3世紀以降にはこれをいくつかの部分に分け、複数の君主が分割統治するという体制がとられることとなった。さらに、4世紀前半のコンスタンティノポリス遷都により、政治的にも「東の部分」が帝国の中心であることが明白となった。395年の[[テオドシウス1世]]の死後、長男アルカディウスは東を、次男ホノリウスは西を分割統治するようになり、帝国の「西の部分」と「東の部分」はそれぞれ別個の途を歩むこととなった<ref>なお、分割統治した当初はあくまでもそれまでの分割統治同様、一つの帝国を二人で分割統治する体制と捉えられていた。例えば、は443年に地震で破損したローマ市の[[コロッセオ]]の修復が行われているが、その際にコロッセオに設置されたラテン語碑文には「平安なる我らが主、テオドシウス・アウグストゥス([[テオドシウス2世]])とプラキドゥス・ウァレンティニアヌス・アウグストゥス([[ウァレンティニアヌス3世]])のために、首都長官ルフィウス・カエキナ・フェリクス・ランバディウスが(以下略)」と東西両皇帝の名が記されている。[[本村凌二]]編著/池口守・大清水裕・志内一興・高橋亮介・中川亜希著『ラテン語碑文で楽しむ古代ローマ』(研究社 2011年)P232-233</ref>。これ以降の帝国の「東の部分」を指して、「東ローマ帝国」という通称が使われている。