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{{統合文字|薩}}
{{Battlebox
| battle_name = 薩英戦争<br/>Anglo-Satsuma War
| campaign =
| colour_scheme =
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| combatant2 = [[ファイル:Japanese Crest maru ni jyuji.svg|25px]] [[薩摩藩]]
| commander1 = {{flagicon|United Kingdom}} [[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]<br/>{{flagicon|United Kingdom}} [[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]<br/>{{flagicon|United Kingdom}} [[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)|ラッセル伯爵]]<br/>{{flagicon2|イギリス|naval}} [[オーガスタス・レオポルド・キューパー|キューパー提督]]
| commander2 = [[ファイル:Japanese Crest maru ni jyuji.svg|25px]] [[島津茂久]]<br />[[ファイル:Japanese Crest maru ni jyuji.svg|25px]] [[島津久光]]
| strength1 = [[イギリス海軍]]
| strength2 = 薩摩藩
| casualties1 = 死者13人<ref name="simazu_doc2"/><ref name="1863newspaper"/><br/>負傷者50人<ref name="simazu_doc2"/><ref name="1863newspaper"/><br/>艦船大破1隻<ref name="simazu_doc2"/><br/>中破2隻<ref name="simazu_doc2"/>
| casualties2 = 死者8人<ref name="simazu_doc2"/><br/>負傷者1人<ref name="simazu_doc2"/><br/>大砲8門<ref name="1863newspaper"/><br/>弾薬庫x2<ref name="1863newspaper"/>|}}
'''薩英戦争'''(さつえいせんそう、{{lang-en|Anglo-Satsuma War, Bombardment of Kagoshima}}、[[文久]]3年[[7月2日 (旧暦)|7月2日]]([[1863年]][[8月15日]]) - [[7月4日 (旧暦)|7月4日]]([[8月17日]]))は、[[生麦事件]]の解決を迫る[[イギリス]]([[グレートブリテン及びアイルランド連合王国]])と[[薩摩藩]]の間で戦われた[[鹿児島湾]]における戦闘である。
 
鹿児島では「まえんはまいっさ」(前の浜戦)と呼ばれる(城下町付近の海浜が前の浜と呼ばれていた)。薩英戦争後の交渉が、英国が薩摩藩に接近する契機となった。
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文久2年[[8月21日 (旧暦)|8月21日]]([[1862年]][[9月14日]]) - [[生麦事件]]が発生する。[[横浜港]]付近の[[武蔵国]][[橘樹郡]]生麦村で薩摩藩の行列を乱したとされるイギリス人4名のうち3名を薩摩藩士・[[奈良原喜左衛門]]、[[海江田信義]]らが殺傷する(死者が1名、負傷者が2名)。
 
この種の事件は、不平等条約を強制された国々で発生せざるを得ない特徴的な事件である。居留地にいる条約締結国国民は治外法権で保護されている。居留地外では当該国の法に従う事になる。そして、居留地に居住する外国人は遊歩区域が認められいる。横浜では「神奈川 六郷川筋を限として其他は各方へ凡十里」とされていた。このグレーゾーンでは、正統性が両国の力関係で決定される。このような紛争を介して欧米列強は、どの国においても「内地自由通行権」の獲得に力を注ぐことになる<ref>宮地正人著 『幕末維新変革史 上』 岩波書店 2012年 381ページ</ref>。
{{Main|生麦事件}}
 
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文久3年[[5月9日 (旧暦)|5月9日]](1863年6月24日)、イギリス[[公使]]代理の[[ジョン・ニール]]は幕府から生麦事件の賠償金10万[[スターリング・ポンド|ポンド]]を受け取った。
 
[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]([[8月6日]])、ジョン・ニールは薩摩藩との直接交渉のため、7隻の艦隊([[旗艦]][[ユーライアラス (蒸気フリゲート)|ユーライアラス]](艦長・司令J・ジョスリング一等海佐(Captain) (Captain)<ref name="一等海佐">当時のイギリス海軍には少佐(Lieutenant (Lieutenant-Commander)Commander) に相当する階級が無く、佐官は“Captain”と“Commander”二等級であった。19世紀前半までの“Captain”は「勅任艦長」、“Commander”は「[[海尉]]艦長」と一般的に訳されるが、この頃にはこれらは階級へと変化しており、役職名であるそれらの訳語も不適切である。よって、“Captain”は一等海佐とする。</ref>)、[[コルベット]]「[[パール (蒸気コルベット)|パール]]」(艦長J・ボーレイス一等海佐(Captain) (Captain)<ref name="一等海佐"/>)、同「[[パーシュース (蒸気スループ)|パーシュース]]」(艦長A・キングストン[[海尉]](Lieutenant (Lieutenant-Commander)Commander)<ref name="海尉">当時のイギリス海軍では、“Lieutenant-Commander”は正式の階級ではなく、古参の“Lieutenant”に許される称号であった。また、尉官は(現在でも)二等級なので、“Lieutenant”は「海尉」とする。</ref>)、同「アーガス」(艦長L・ムーア[[海尉]](Lieutenant (Lieutenant-Commander)Commander)<ref name="海尉"/>)、[[砲艦]]「レースホース」(艦長C・ボクサー[[海尉]](Lieutenant (Lieutenant-Commander)Commander)<ref name="海尉"/>)、同「コケット」(艦長J・アレキサンダー[[海尉]](Lieutenant (Lieutenant-Commander)Commander)<ref name="海尉"/>)、同「ハボック」(艦長G・プール[[海尉]](Lieutenant) (Lieutenant)<ref name="海尉"/>)、指揮官:イギリス東インド艦隊司令長官[[オーガスタス・レオポルド・キューパー]][[海軍少将]])と共に[[横浜市|横浜]]を出港。[[6月27日 (旧暦)|6月27日]]([[8月11日]])にイギリス艦隊は鹿児島湾に到着し鹿児島城下の南約7kmの谷山郷沖に投錨した。薩摩藩は総動員体制に入り、[[寺田屋事件]]関係者の謹慎も解かれた。
 
[[6月28日 (旧暦)|6月28日]]([[8月12日]])、イギリス艦隊はさらに前進し、鹿児島城下前之浜約1km沖に投錨した。艦隊を訪れた薩摩藩の使者に対しイギリス側は国書を提出。生麦事件犯人の逮捕と処罰、および遺族への「妻子養育料」として2万5000ポンドを要求。薩摩藩側は回答を留保し翌日に鹿児島城内で会談を行う事を提案している。
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[[ファイル:Bombing of Kagoshima Map - 1863.PNG|thumb|right|当時の新聞による戦況図]]
[[File:KagoshimaBirdView.jpg|thumb|イギリス艦隊と薩摩砲台の戦闘]]
イギリス艦隊には積極的な戦意はなく、旗艦には幕府から得た賠償金が積まれていたが、7月2日(8月15日) - 夜明け前、艦隊の5隻は、[[五代友厚]]や[[寺島宗則]]らが乗船する商用[[汽船]]の天佑丸(England) (England)、白鳳丸(Contest) (Contest)、青鷹丸(Sir (Sir George Grey)Grey) を脇元浦(現在の[[姶良市]]脇元付近)において奪取して[[桜島]]に向かう<ref name="simazu_doc2"/>。これをイギリス艦隊の盗賊行為と受け取った薩摩藩は7箇所の[[砲台]]([[台場]])に追討の令を出す<ref name="simazu_doc2">日本史籍協会『島津久光公實記(二)』pp60-79</ref>。湾内各所に設置した砲台から投錨する残りの艦隊に対敵した砲台(Battery Point)(Battery Point) が攻撃を開始、慌てた艦隊は[[錨]]を切断して逃走する<ref name="simazu_doc2"/>。
 
不意を突かれたキューパー提督([[海軍少将]])は奪取した天佑丸、白鳳丸、青鷹丸を保持したまま戦闘することは不利と判断し、貴重品を略奪すると薩摩の蒸気船3隻を焼却。
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その後イギリス艦隊は[[戦列艦|戦列]]を整え、[[ユーライアラス (蒸気フリゲート)|旗艦ユーライアラス]]は、第8台場(戦況図参照)に向けて[[旋回砲|自在砲]]([[110ポンドアームストロング砲]])を用いて発砲。艦隊の107門の砲は21門が最新式の[[40ポンドアームストロング砲]]や110ポンドアームストロング砲であり、これを用いて陸上砲台([[沿岸砲|沿岸防備砲]]・台場)に接近しての砲撃を行った。これに対して薩摩の砲台・台場からの応戦による大砲の発砲は数百発に及び、接近する艦隊に小銃隊も砲撃の合間を縫って狙撃を行った<ref name="simazu_doc2"/>。艦隊の第7台場、第8台場への攻撃では薩摩側の砲8門を破壊した。イギリス艦隊の[[艦砲射撃]]は敵対した台場だけでなく鹿児島城や城下町の民家などに対しても砲撃や[[ロケット弾]](火箭)で攻撃を加え、城下ではおりからの強風のため大規模な火災が発生した。近代工場群を備えた藩営[[集成館事業|集成館]]も破壊された。
 
薩摩藩の砲はイギリス艦隊に比べると射程距離が短く、性能も劣っていたが、台場に接近する艦隊は午前よりの荒天のため操艦や砲の照準も定まらないなど苦戦を強いられた。その戦闘の際に台場の[[臼砲]]の弾丸1発が旗艦ユーライアラスの甲板に落下、軍議室に入り込み破裂・爆発、居合わせた艦長・司令(Captain Josling)(Captain Josling) や次官司令(Commander Wilmot)(Commander Wilmot) などの[[士官]]が戦死した<ref name="simazu_doc2"/><ref name="1863newspaper"/>。キューパー提督も艦長や指揮官などと居合わせたが難を逃れた。
 
午後5時過ぎ、イギリス艦隊は砲撃をやめ、桜島[[桜島横山町|横山村]]・[[桜島小池町|小池村]]沖に戻って停泊した。7月3日(8月16日)、旗艦艦長や次官司令などの戦死者を錦江湾で[[水葬]]にする。艦隊は戦列を立て直し、市街地と両岸の台場を砲撃して市街地および島津屋敷を延焼させた。また、砲撃により第11台場および突出台場(Battery Point)(Battery Point) の火薬庫が爆発して、突出台場より反撃があったが、その後台場よりの反撃は収まり、沖小島台場からの砲撃に応戦しながら湾内を南下、[[谷山市|谷山]]沖に停泊し艦の修復を行う。薩摩藩により沖小島と桜島の間付近に集成館で製造した水中爆弾3基(地上より遠隔操作)を仕掛けて待ち伏せしていたが、イギリス艦隊は近寄らず失敗した。7月4日(8月17日)、艦隊は弾薬や石炭燃料の消耗や多数の死傷者を出し、薩摩を撤退した。その中の一艦は艦隊からとも綱を外し、損壊も甚だしく、[[南大隅町|小根占]]の洋上に停泊して修理を行っていたが、この艦を7月6日(8月19日)夜に他の艦が来て曳航して行った<ref name="simazu_doc2"/>。7月11日(8月24日)、全艦隊が横浜に帰着
7月4日(8月17日)、艦隊は弾薬や石炭燃料の消耗や多数の死傷者を出し、薩摩を撤退した。その中の一艦は艦隊からとも綱を外し、損壊も甚だしく、[[南大隅町|小根占]]の洋上に停泊して修理を行っていたが、この艦を7月6日(8月19日)夜に他の艦が来て曳航して行った。<ref name="simazu_doc2"/>。7月11日(8月24日)、全艦隊が横浜に帰着。
 
=== 戦闘の結果 ===
薩摩藩の砲台によるイギリス艦隊の損害は、大破1隻・中破2隻の他、死傷者は63人(旗艦ユーライアラスの艦長や次官司令の戦死を含む死者13人、負傷者50人)に及んだ。一方、薩摩藩側の人的損害は什長の税所清太郎(篤風)、他に7人が死亡、老臣の川上龍衛が負傷した<ref name="simazu_doc2"/>。物的損害は台場の大砲8門、火薬庫の他に、鹿児島城内の櫓、門等損壊、集成館、鋳銭局、寺社、民家350余戸、藩士屋敷160余戸、藩汽船3隻、琉球船3隻が焼失と軍事的な施設以外への被害は甚大であった
一方、薩摩藩側の人的損害は什長の税所清太郎(篤風)、他に7人が死亡、老臣の川上龍衛が負傷した<ref name="simazu_doc2"/>。物的損害は台場の大砲8門、火薬庫の他に、鹿児島城内の櫓、門等損壊、集成館、鋳銭局、寺社、民家350余戸、藩士屋敷160余戸、藩汽船3隻、琉球船3隻が焼失と軍事的な施設以外への被害は甚大であった。
 
朝廷は薩摩藩の攘夷実行を称えて薩摩藩に褒賞を下した。横浜に帰ったイギリス艦隊内では、戦闘を中止して撤退したことへの不満が兵士の間で募っていた。 
 
当時の世界最強のイギリス海軍が{{要出典|事実上勝利をあきらめ横浜に敗退した結果となったのは西洋には驚きであり|date=2014年8月}}、当時の[[ニューヨーク・タイムズ]]紙は「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ。彼らは勇敢であり西欧式の武器や戦術にも予想外に長けていて、降伏させるのは難しい。英国は増援を送ったにもかかわらず、日本軍の勇猛さをくじくことはできなかった」とし、さらに、「西欧が戦争によって日本に汚い条約に従わせようとするのはうまくいかないだろう」とも評している<ref>The Progress of the Japanese War. October 4, 1863 ., New York Times.</ref>
 
本国の[[イギリス議会]]や国際世論は、戦闘が始まる以前にイギリス側が幕府から多額の賠償金を得ているうえに、鹿児島城下の民家への艦砲射撃は必要以上の攻撃であったとして、キューパー提督を非難している。
 
=== イギリス艦艇一覧 ===
1863年8月15日、鹿児島攻撃時の戦闘隊列でのイギリス艦隊を一覧で表す。死傷者の無かったハボック(Havock) (Havock) は琉球船(LoochooI (Loochoo I. Junks)5Junks) 5隻を襲う。
 
{| class="wikitable" style="width:100%"
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! 艦名 !! 艦種 !! 建造年 !! トン数 !! 乗員 !! 出力 !! 備砲 !! 死傷者<ref name="1863newspaper">アジア歴史資料センター、鹿児島戦争之英文新聞紙翻訳・全(画像資料:Ref.A07060050900 pp26-34)</ref>
|-
| [[ユーライアラス (蒸気フリゲート)|ユーライアス]]<br>Euryalus || [[フリゲート]]<br>蒸気スクリュー || 1853年<br>(改造) || 積載量2371トン([[ビルダーズ・オールド・メジャメント|bmトン]])<br>排水量3125英トン || 540 || 400NHP || [[110ポンドアームストロング砲]]x5<br>[[40ポンドアームストロング砲]]x8<br>その他22門<br>鹿児島砲撃時に[[カロネード砲]]x16を追加  || 戦死10名<br>負傷21名
|-
| [[パール (蒸気コルベット)|パール]]<br>Pearl || [[コルベット]]<br>蒸気スクリュー || 1855年 || 積載量1469トン([[ビルダーズ・オールド・メジャメント|bmトン]])<br>排水量2187英トン || 400 || 400NHP || 68ポンド砲x1<br>10インチ砲x20  || 負傷7名
|-
| コケット<br>Coquette || [[砲艦]]<br>蒸気スクリュー || 1855年 || 積載量677トン([[ビルダーズ・オールド・メジャメント|bmトン]]) || 90 || 200NHP || 110ポンドアームストロング砲x1<br>10インチ砲x1<br>32ポンド砲x1<br>20ポンド砲x2  || 戦死2名<br>負傷4名
|-
| アーガス<br>Argus || [[スループ#戦闘用のスループ|スループ]]<br>蒸気外輪 || 1852年 || 積載量981トン([[ビルダーズ・オールド・メジャメント|bmトン]])<br>排水量1630英トン || 175 || 300NHP || 110ポンドアームストロング砲x1<br>10インチ砲x1<br>32ポンド砲x4  || 負傷6名
|-
| [[パーシュース (蒸気スループ)|パーシュース]]<br>Perseus || スループ<br>蒸気スクリュー || 1861年 || 積載量955トン([[ビルダーズ・オールド・メジャメント|bmトン]])<br>排水量1365英トン || 175 || 200NHP || 40ポンドアームストロング砲x5<br>32ポンド砲x12  || 戦死1名<br>負傷9名
|-
| レースホース<br>Racehorse || 砲艦<br>蒸気スクリュー || 1860年 || 積載量695トン([[ビルダーズ・オールド・メジャメント|bmトン]])<br>排水量877英トン || 90 || 200NHP || 110ポンドアームストロング砲x1<br>10インチ砲x1<br>32ポンド砲x1<br>20ポンド砲x2  || 負傷3名
|-
| ハボック<br>Havock || ガンボート<br>蒸気スクリュー || 1856年 || 積載量232トン([[ビルダーズ・オールド・メジャメント|bmトン]]) || 37 || 60NHP || 68ポンド砲x2  || なし
|}
 
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生麦事件発生以前にも2度にわたる[[駐日英国大使館|イギリス公使館]]襲撃([[東禅寺事件]])などでイギリス国内の対日感情が悪化している最中での生麦事件の発生に[[初代ラッセル伯ジョン・ラッセル|ジョン・ラッセル]]外相(後の[[イギリス首相|首相]])は激怒し、ニール代理公使及び当時艦隊を率いて横浜港に停泊していた[[東洋艦隊 (イギリス)|東インド・極東艦隊]]司令官の[[ジェームズ・ホープ]]中将に対して対抗措置を指示していた。実は2度目の東禅寺襲撃事件の直後からニールとホープは連絡を取り合い、更なる外国人襲撃が続いた場合には[[関門海峡]]・[[大坂湾]]・[[江戸湾]]などを艦隊で封鎖して日本商船の[[廻船]]航路を封鎖する制裁措置を検討していた。当時、日本には[[砲台]]は存在していたが、それらの射程距離は外国艦隊の艦砲射撃の射程距離よりも遙かに短く、ホープはそれらの砲台さえ無力化できれば巨大な軍艦の無い江戸幕府や諸藩にはもはや封鎖を解くことは不可能であると考えていた。
 
実際に文久2年[[11月20日_ (旧暦)|11月20日]](1863年[[1月9日]])に[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]臨席で開かれた[[枢密院 (イギリス)|枢密院]]会議で対日海上封鎖を含めた武力制裁に関する勅令が可決されている。だが、ニールもホープもこの海上封鎖作戦を最後の手段であると考えていた。ニールは、ホープに代わって東インド・極東艦隊司令官となったキューパー少将を横浜に呼び寄せ、文久3年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]([[3月22日]])、幕府に生麦事件と東禅寺事件の賠償問題(合計11万ポンド)について最後通牒を突きつけたが、この際に日本を海上封鎖する可能性をわざわざ仄めかしている。
 
江戸幕府は、[[フランス]]公使[[ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクール|デュシェーヌ・ド・ベルクール]]に英国との仲介を依頼し、文久3年[[5月9日 (旧暦)|5月9日]]([[6月24日]])にニールと江戸幕府代表の[[小笠原長行]]との間で賠償交渉がまとまった。このため、ニールとキューパーは、日本に対する海上封鎖作戦を直前に中断した。幕府との交渉が決着したため、続いて実行犯である薩摩藩との交渉のため、ニールとキューパーは薩摩に向かったが、この時点では戦闘の可能性は低いと考えていた。
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当時の最新鋭兵器として期待されていた[[アームストロング砲]]は、この戦闘で暴発や不発([[不発弾]])が多い事が実戦で判明したため、イギリス海軍から全ての注文をキャンセルされた。さらに輸出制限も外されて海外へ輸出されるようになり、後に日本にも輸入される原因になったとされる<ref>『日本の戦艦』p144~p147、「1863年、薩英戦争における新式アームストロング砲の大事故」</ref>。
 
なお、当時の事件を伝える新聞(1863年8月26日鹿児島戦争之英文新聞紙翻訳)では<ref name="1863newspaper"/>、イギリス艦隊側の負傷者氏名と傷の詳細や戦闘の様子が掲載され、その戦死者の負傷状況などからも[[榴弾|破裂弾]]の着弾爆発による被害を物語っているなど、この新聞記事(従軍記者の記述)ではアームストロング砲の暴発については一切触れられていない。また、旗艦ユーライアラスには薩摩側の臼砲弾などが数発命中し、それらの破裂弾により艦隊全体の死傷者数の4割以上を一つの艦で占めるなど、ユーライアラスでの死傷者は31名に及んでおり<ref name="1863newspaper"/>、その詳細な状況から砲の暴発があったとしても、被害は限られた範囲の事象と推定できる<ref>暴発での負傷の程度を示すものとして、当時、戦闘に参加したイギリス士官の暴発についての逸話が残っており、[[40ポンドアームストロング砲#海軍での運用]]、[[110ポンドアームストロング砲#実戦]]の各記事引用で、暴発での負傷者が殆ど無かったことへの言及もある。</ref>
また、旗艦ユーライアラスには薩摩側の臼砲弾などが数発命中し、それらの破裂弾により艦隊全体の死傷者数の4割以上を一つの艦で占めるなど、ユーライアラスでの死傷者は31名に及んでおり<ref name="1863newspaper"/>、その詳細な状況から砲の暴発があったとしても、被害は限られた範囲の事象と推定できる<ref>暴発での負傷の程度を示すものとして、当時、戦闘に参加したイギリス士官の暴発についての逸話が残っており、[[40ポンドアームストロング砲#海軍での運用]]、[[110ポンドアームストロング砲#実戦]]の各記事引用で、暴発での負傷者が殆ど無かったことへの言及もある。</ref>。
 
===== 異説 =====
* {{要出典範囲|date=2012年5月|薩摩藩は処罰の対象を、犯人ではなく[[藩主]]だと勘違いしたため拒否したという説がある(要求文翻訳を担当した[[福澤諭吉]]が急いでいたために、原文を直訳してしまい事件の責任者と藩主の区別があいまいになったため)}}。
 
* {{要出典|この戦闘中指揮官のニールとキューパーは、自ら命がけでイギリス船に乗り込んだ[[五代友厚]]と[[松木弘安]](寺島宗則)をよび、薩摩藩の実力についてたずねた。五代は「古来日本の士風は死を見ることなお帰するが如きものがある。ことにわが薩藩は武をもってなり、いわんや今回は国家の大事にのぞみ、陸上十万の精鋭は一人として生を欲するものがいない。しかも陸戦はそのもっとも得意とする所であるから、貴国水兵の陸戦隊の上陸を決死奮戦の意気込みでまちかまえている」と答えた。これを聞いたニールとキューパーは途端に上陸作戦を思いとどまる。10万人と聞いては本国から援兵をもとめるにしても到底かなわないと思ったからであろう。五代は砲台備砲についても彼の心胆を寒からしめるような放言をなしたのであった。いわば五代の謀略にかかって戦意を失い、戦い半ばにして退却し、再度の来襲を敢行しなかったのである。「地上戦となれば薩摩の1010万人の侍、命を懸けて戦いに臨む。英軍に勝算はなく退避せよ。」という五代の熱弁と暴風雨が功を奏し被害はイギリス軍が多く、五代の交渉力により、薩英戦争は解決したのである。|date=2015年4月}}
 
 
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*[[石井孝]]著『明治維新と自由民権』(有隣堂、[[1993年]]) ISBN 4-89660-115-7
*編者:日本史籍協会『[[島津久光]]公實記(二)』(財団法人 東京大学出版会、[[1997年]])。ISBN-10: 4130978888
*鵜飼政志著[http://www.h-web.org/mrugai/private/1999a.html 『幕末におけるイギリス海軍の対日政策ー日本における軍艦常駐体制成立の経緯ー』] 明治維新史学会編『明治維新と西洋国際社会』(吉川弘文館、1999年)、P92 - 115
*鵜飼政志著[http://www.h-web.org/mrugai/private/1999ba.html 『一八六三年前後におけるイギリス海軍の対日政策』] 学習院史学(学習院大学史学会)第37号、P40 - 58、1999年
*[[萩原延壽]]著『旅立ち 遠い崖1 アーネスト・サトウ日記抄』 (朝日新聞社、2007年)。ISBN 978-4022615435
*同『薩英戦争 遠い崖2 アーネスト・サトウ日記抄』 (朝日新聞社、2007年)。ISBN 978-4022615442
*泉江三著『<small>軍艦メカニズム図鑑</small> 日本の戦艦』下(グランプリ出版、2001年) ISBN 4-87687-222-8
*宮本又次著『五代友厚伝』(有斐閣、1981年)
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== 関連項目 ==
{{Commonscat|Anglo-Satsuma War}}
* [[下関戦争]]
*[[生麦事件]]