「行基」の版間の差分
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|諡号=行基菩薩・行基大徳
|尊称=行基上人・行基法師
|生地=河内国(後[[和泉国]])[[大鳥郡]](現・[[大阪府]][[堺市]])
|没地=[[喜光寺]]([[奈良県]][[奈良市]][[菅原町 (奈良市)|菅原町]])
|[[僧綱]]位=大[[僧正]]
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}}{{Buddhism}}
'''行基'''(ぎょうき/ぎょうぎ
== 出自 ==
父[[高志才智]]、母[[蜂田古爾比売]]の長子として、[[河内国]](後
== 生涯 ==
河内国大鳥郡([[757年]]に和泉国へ分立、現在の[[大阪府]][[堺市]][[西区 (堺市)|西区]]家原寺町)に生まれる。[[682年]]([[天武天皇]]11年)に15歳で出家し、[[飛鳥寺]]([[官大寺]])で[[法相宗]]などの教学を学び、集団を形成して[[近畿地方]]を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活動した。[[704年]]([[大宝 (日本)|大宝]]4年)に生家を[[家原寺]]としてそこに居住した。その師とされる[[道昭]]は、入唐して[[玄奘]]の教えを受けたことで有名である。
民衆を煽動する人物であると[[朝廷]]から疑われたこと、また寺の外での活動が[[僧尼令]]に違反するとされたことから、[[養老]]元年[[4月23日_(旧暦)|4月23日]][[詔]]をもって糾弾されて弾圧を受けた。だが、行基の指導により[[墾田]]開発や社会事業が進展したこと、豪族や民衆らを中心とした教団の拡大を抑えきれなかったこと、行基の活動を朝廷が恐れていた「反政府」的な意図を有したものではないと判断したことから、[[731年]]([[天平]]3年)弾圧を緩め、翌年河内国の[[狭山池 (大阪府)|狭山池]]の築造に行基の技術力や農民動員の力量を利用した。[[736年]](天平8年)に、[[インド]]出身の僧・[[菩提僊那]]が[[チャンパ王国]]出身の僧・[[仏哲]]、唐の僧・[[道璿]]とともに来日した。彼らは九州の[[大宰府]]に赴き、行基に迎えられて[[平城京]]に入京し[[大安寺]]に住し、時服を与えられている。[[738年]](天平10年)に朝廷より'''「行基大徳」'''の諡号が授けられた。(日本で最初の律令法典「[[大宝律令]]」の注釈書などに記されている。)
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[[大阪府]][[岸和田市]]の[[岸和田十月祭礼#八木|八木だんじり祭]]では、[[久米田寺]]開山堂(行基堂)前に周辺地区の[[地車|だんじり]]が集結する。これは、久米田寺の前に位置する[[久米田寺#久米田池|久米田池]]を行基が掘削指導し、田畑の開墾や周辺住民の生活向上へ寄与し、その他の遺徳を顕彰する「行基参り」と呼ばれている。
[[兵庫県]][[伊丹市]]の[[昆陽池公園]]の園内施設には行基の
=== 行基開基の寺院と比定地 ===
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{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:きようき}}
[[Category:行基|*]]
[[Category:法相宗の僧]]
[[Category:飛鳥・奈良時代の僧]]
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[[Category:東大寺]]
[[Category:大阪府の歴史]]
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[[Category:668年生]]
[[Category:749年没]]
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