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'''星野 立子'''(ほしの たつこ、[[1903年]]([[明治]]36年)[[11月15日]] - [[1984年]](昭和59年)[[3月3日]])は、昭和期の俳人。[[高浜虚子]]の次女。虚子に師事し、初の女性主宰誌「[[玉藻 (雑誌)|玉藻]]」を創刊・主宰した。虚子の一族でも特に評価の高い人物の一人である。女性俳人では同時期に活躍した[[中村汀女]]、[[橋本多佳子]]、[[三橋鷹女]]とともに'''四T'''と称された。
 
== 経歴 ==
[[東京府]][[麹町区]]富士見町(現・[[東京都]][[千代田区]])に生まれる。父[[高浜虚子]]母いとの次女。7歳のとき鎌倉に移る。1924年、[[東京女子大学]]高等学部卒業。1925年に[[星野天知]]の息子・[[星野吉人]]と結婚「[[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]」発行所および文化学院に就職。1926年より父3月、虚子の薦めで作句をはじめる。[[1930年]]2月長女早子(後ろ盾を得てちの[[星野椿]])誕生。6月、虚子の慫慂により、初の女性による主宰誌「[[玉藻 (雑誌)|玉藻]]」創刊。句集に『立子句集』(19371932)『鎌倉』(1940年)『実生』(1957年)『春雷』(1972年)などがある、「ホトトギス」同人
 
1953年、3月より2ヶ月半にわたり[[北米]]・[[ブラジル]]を訪れる。1956年4月、政府文化使節としてインド・ヨーロッパを1ヶ月間訪問。1959年4月、虚子の死没により朝日俳壇選者を継承。1969年4月、妹の[[高木晴子]]とともにふたたび北米・ブラジルを訪れる。1970年10月、脳血栓により倒れ、翌年3月まで入院。このため1983年7月まで春子が「玉藻」の代選をした。1975年、勲四等宝冠章受章。1984年3月3日、直腸癌により死去。鎌倉寿福寺に葬られ、「雛飾りつゝふと命惜しきかな」自筆句碑もここに建てられている。
虚子は子女のなかで、句作を「私の方から勧めたのは、星野立子一人である」(『晴子句集』序文)としている。さらに虚子は『立子句集』([[1937年]])の序文で「自然の姿をやはらかい心持で受け取ったまゝに諷詠するといふことは立子の句に接してはじめて之ある哉といふ感じがした。写生といふ道をたどつて来た私はさらに写生の道を立子の句から教はつた感じる」と激賞した。1935年ころからは、それまでの「明るい鏡に写しとつたやうな景色を写生した句」が「作者の感情に動くままに景色を描くといつた句になつて来た」(「玉藻」[[1925年]]11月号)と評している。
 
== 作品 ==
*昃(ひかげ)れば春水の心あともどり
*ままごとの飯もおさいも土筆かな
*囀をこぼさじと抱く大樹かな
*朴の葉の落ちをり朴の木はいづこ
*父がつけしわが名立子や月を仰ぐ
*しんしんと寒さがたのし歩みゆく
*美しき緑走れり夏料理
*雛飾りつふと命惜しきかな
などが代表句である。立子は自ら進んで認めたように、虚子の唱える客観写生、花鳥諷詠の忠実な実践者であった<ref>[[齋藤慎爾]]、[[坪内稔典]]、[[夏石番矢]]、[[復本一郎]]編 『現代俳句ハンドブック』 雄山閣、1995年、83頁</ref>。口語的な発想の伸びやかな句風であり、父虚子の持っていた即興詩的な側面をよく受け継いでいる<ref>[[山本健吉]] 『定本 現代俳句』 角川書店、1998年、219頁</ref>。
 
などが代表句であり、明るく伸びやかな感性の日常詠を特色とする<ref name=AMI>[[田中亜美]] 「星野立子」『現代の俳人101』 新書館、2004年、25頁。</ref>。立子は自ら進んで認めたように、虚子の唱える客観写生、花鳥諷詠の忠実な実践者であった<ref>[[山田弘子]] 「星野立子」『現代俳句ハンドブック』 雄山閣、1995年、83頁。</ref>。虚子は自身の子女のなかで句作を「私の方から勧めたのは、星野立子一人である」(『晴子句集』序文)と書いており、また『立子句集』([[1937年]])の序文では「自然の姿をやはらかい心持で受け取ったまゝに諷詠するといふことは立子の句に接してはじめて之ある哉といふ感じがした。写生といふ道をたどつて来た私はさらに写生の道を立子の句から教はつた感じる」と高く評価した<ref name=KAZUKO>[[西村和子]] 「星野立子」『現代俳句大事典』 三省堂、2005年、503-504頁。</ref>。
 
[[山本健吉]]は「朴の葉の」の句を評して、「ありふれた日常語の使用や、口語的な発想は、立子の句の一つの特徴をなすもので、虚子の句が持っている即興詩的側面を、立子は承けついでいると言えよう」と書いている<ref>[[山本健吉]] 『定本 現代俳句』 角川書店、1998年、219頁</ref>。後年は主観的、心理的な要素を加えるようになり<ref name=AMI/>、虚子は昭和10年頃からの立子の句について、それまでの「明るい鏡に写しとつたやうな景色を写生した句」が「作者の感情に動くままに景色を描くといつた句になつて来た」(「玉藻」[[1925年]]11月号)と評している<ref name=KAZUKO/>。
 
== 出典 ==