「石田一松」の版間の差分

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[[1946年]][[4月10日]]、戦後初の[[第22回衆議院議員総選挙|衆議院議員総選挙]]に一人一党の日本正論党を掲げ大選挙区の東京1区から立候補。この選挙は女性議員が数多く出馬し初当選して話題を呼んだが、石田も今度は「~地盤とカバンは有りませんけど、看板だけなら日本中~ハハのんきだね~」などと演説の間に持ち歌を歌って人気を集め、[[鳩山一郎]]、[[野坂参三]]、[[浅沼稲次郎]]らに次ぐ7位で見事当選した。当時は「タレント」という言葉が無かったので「芸能人代議士」と呼ばれた。この為今日言われる[[タレント政治家|タレント議員]]・第一号とされその草分けとされる。
 
この後、中選挙区の東京5区から連続当選4回し代議士として活躍<ref name="中国20110924"/>。[[三木武夫]]と行動を共にし[[国民協同党]]、[[改進党]]に属した<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/column/seihei/201303/0005845371.shtml 神戸新聞NEXT|社説・コラム|正平調2013/03/26]</ref>。議席を得ても芸能活動は辞めず昼は[[国会 (日本)|国会]]、夜はステージに立った。[[1951年]]、[[国民民主党 (日本)|国民民主党]]に名前を変えていた党の党議に背き[[日米安全保障条約|日米安保条約]]・対日平和条約の批准に反対、“全面講和”を主張して離党。また、[[日本共産党]]の[[川上貫一]]議員の[[除名]]決議に際しても「[[国会]]での発言封じは[[民主主義]]の危機」と主張し反対票を投じる<ref>[http://www.h3.dion.ne.jp/~mizupro/itimatsu/itimatsu3.htm タレント議員第一号 反骨のバイオリン演歌師 石田一松]</ref>(しかし川上は賛成多数となり除名が決定)。[[1953年]]の「[[バカヤロー解散]]」による総選挙で落選。[[1955年]]の[[第27回衆議院議員総選挙]]では、党の公認をとれず無所属で出馬し惨敗。その後も[[メタンフェタミン|ヒロポン]][[依存症|中毒]]に悩まされながら[[寄席]]に出演し続けた。[[1956年]]、長年にわたり打ち続けたヒロポンで身体はがたがたに蝕まれ[[胃癌]]により死去。享年53。
 
===のんき哲学===