「櫛橋光」の版間の差分

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丁度氷 (会話 | 投稿記録)
加藤吉松は黒田姓を称していません。(「御追号集」『新修 福岡市史 資料編 近世1』2011年 参照)
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|画像説明 = 櫛橋光(報土寺蔵)
|出生名 =
|生年月日 = [[1553年]]([[天文 (元号)|天文]]22年[[1553年]]
|生誕地 = [[播磨国]][[印南郡]]志方
|没年月日 = [[1627年]][[10月5日]]</br>([[寛永]]4年[[8月26日 (旧暦)|8月26日]]([[1627年]][[10月5日]])
|死没地 = [[筑前国]][[福岡市|福岡]]
|戒名 = 照福院殿然誉浩栄大尼公
|墓地 = [[円応寺 (福岡市)|圓應寺]](福岡市[[中央区 (福岡市)|中央区]])</br/>[[報土寺]]([[京都市]])</br/>[[崇福寺 (福岡市)|崇福寺]](福岡市[[博多区]])<br/br>和歌山県[[高野山]]奥の院([[和歌山県]][[高野町]])
|記念碑 =
|住居 =
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|配偶者 = '''[[黒田孝高]]'''
|非婚配偶者 =
|子供 = 長男・'''[[黒田長政]]'''</br/>次男・[[黒田熊之助]]
|親 = 父・[[櫛橋伊定]]
|親戚 =
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== 生涯 ==
[[1553年]]([[天文 (元号)|天文]]22年([[1553年]])、[[播磨国]][[志方城]]主・[[櫛橋伊定]](伊則、則伊とも)の娘として誕生。兄に[[櫛橋政伊]]・[[櫛橋則政]]、姉に[[上月景貞妙寿尼]]([[妙寿尼上月景貞]])、妹に[[井上之房]]室がいる。
 
[[1567年]]([[永禄]]10年([[1567年]])、[[小寺氏]]の家臣・[[黒田孝高]]に正妻として嫁いだ。孝高は[[側室]]を持つこの間になく永禄11年([[1568年]](永禄11年)に[[黒田長政|長政]]、[[1582年天正]]10年([[天正1582年]]10年)に[[黒田熊之助|熊之助]]を産んだ。
 
[[織田信長]]の才能を高く評価していた夫・孝高は、主君の[[小寺政職]]に臣従を進言し、[[毛利氏]]攻めなどの先鋒を務める。ところが、天正6年([[1578年]]([[天正]]6年)3月、播磨国の[[別所長治]]が殆どの周辺豪族を引き込んで信長に反旗を翻すと、志方城の兄・櫛橋政伊もこれに呼応して敵対した。しかし同年7月、志方城は[[織田信雄]]の兵に包囲され、出撃を数度繰り返すも被害は大きく、[[別所氏]]の[[神吉城]]が落とされると、同年8月10日に生家の櫛橋氏は降伏した。この降伏の際に志方城主は人質を出して兵士たちの助命を条件に自害したとされるが、この城主は父・伊定とも兄・政伊ともいわれており、また、他にも諸説あるため詳細は不明。なお、兄の子は許されて、後に[[黒田氏]]に仕えた。
 
その後、夫・孝高は[[豊臣秀吉]]の腹心として活躍し、[[豊前国]][[中津市|中津]]12万石の[[大名]]になると、光は他の大名家の妻子と同様に大坂に置かれた。[[1600年]](慶長]]5年([[1600年]][[関ヶ原の戦い]]が起こると、[[石田三成]]が大坂に残っている大名の妻子を人質にしようとしたが、[[細川ガラシャ]]が拒否して玉造の屋敷に火を放っ自害しことに伴い監視が緩むと、孝高の家臣たち([[栗山利安]]、[[母里友信]]、[[宮崎重昌]])によって、光や長政室・[[栄姫]]は長柄の屋敷から救出され、孝高の居城の[[豊前国]][[中津城]]まで船で脱出した。
 
夫・孝高や息子・長政は[[受洗]]して[[キリシタン]]となったが、光は熱心な[[浄土宗]]の信徒で、慶長9年([[1604年]](慶長9年夫・孝高の死後に出家し、照福山顕光院[[円応寺 (福岡市)|圓應寺]](後に火災で焼失)を建立した。黒田家では「才徳兼備(才能と容姿に徳を兼ね備えていた)」と称えられた。また、京都において、[[浄土宗]]報土寺に塔頭、照福院を建立(その後、報土寺が寺地を移転により本寺に統合されたが、墓所は現在に残る)しており、夫・孝高や[[豊臣秀吉]]も同寺を訪れたと過去帳に記載がある。本人の肖像画も伝来し、現在は[[京都国立博物館]]に寄託されている。
 
[[1627年寛永]]4年([[寛永1627年]]4年)、[[筑前国]]福岡において死去(卒年75)。戒名は照福院殿然誉浩栄大尼公。墓は、報土寺(京都)、崇福寺(福岡)、圓應寺(福岡)にある。
 
== 人物 ==
黒田家では「才徳兼備(才能と容姿に徳を兼ね備えていた)」と称えられた。
 
== 子孫 ==
櫛橋光の子は、夫・孝高との間に生まれた黒田長政(長男、1568年(永禄11年)生誕)と黒田熊之助(次男、1582年(天正10年)生誕)のみであった。長政の誕生後、しばらく子が生まれなかったが、夫・孝高は側室を持つことはなかった。そのようななかで、[[有岡城の戦い]]に際に夫・孝高が敵方へ裏切ったとの疑いから、織田信長の命で長政(幼名:松寿丸)は処刑されそうになり、一時は跡取りを失う危機に陥ったが、[[竹中重治]]に匿われたことにより回避された。
 
まもなくして、二番目の子となる熊之助(くまのすけ)が誕生。熊之助も順調に成長したが、慶長2年([[1597年]])、[[文禄・慶長の役]]に参加していた父・孝高や兄・長政を見舞うために、母里吉太夫(母里友信の嫡男)・加藤吉松([[黒田一成]]の弟)・[[木山紹宅]]を従え[[朝鮮半島]]を目指していた途中、暴風に遭って船が沈没し死去した(享年16)。
 
そのため、長政の子孫のみが光の子孫となる(詳しくは[[黒田長政#子孫]]を参照のこと)。
 
== 備考 ==
* 光姫名前の読み方は「テル」が通説であったが、[[2013年平成]]25年([[平成2013年]]25年)8月、自身が建立した菩提寺である圓應寺(福岡)の蔵書から'''ミツ'''とルビの記された古文書が発見され、同月26日発表された<ref>{{Cite web |last= |first= |author=三木英信|authorlink= |coauthors= |date= |url= http://www.ennouji.or.jp/mitu.html|title= 光(みつ)姫? 光(てる)姫?|format= |doi= |work= |publisher=圓應寺 |page= |pages= |language= |archiveurl= |archivedate= |accessdate=2003-11-22 |quote= |ref=}}</ref>。なお、[[2014年]](平成26年)の[[大河ドラマ]]『[[軍師官兵衛]]』(演 - [[中谷美紀]])では「'''てる'''」と読ませている
* 孝高が[[太宰府天満宮]]に収めた『如水夢想連歌集』の中で、「長閑(のどか)に 風のかよふ 江のみず」と返歌を読んだ幸圓が、光の雅号だと考えられている(「幸園」とする書籍があるが、誤記である)。