「ロバート・フック」の版間の差分

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1648年に父が亡くなり、徒弟修業が受けられるようにと父が残した40ポンドの遺産を手にした<ref name="Martin"/><ref name="JOCEFR">{{Cite web|url= http://www.gap-system.org/~history/Biographies/Hooke.html|title=Hooke biography|last=O'Connor |first=J J|coauthors=E F Robertson|date=August 2002|publisher=School of Mathematics and Statistics University of St Andrews, Scotland|accessdate=2010-03-09|quote=He was left £40 by his father, together with all his father's books (the often quoted figure of £100 is a much repeated error)}}</ref>。父はロバートが機械好きだということで、時計職人か[[装飾写本]]の絵師になるだろうと考えていた。フック自身は画家にも興味があった。徒弟修業するつもりでロンドンに出たが、Samuel Cowper や[[ピーター・レリー]]の下で短期間学んで優秀さを見出され、すぐに [[:en:Richard Busby|Richard Busby]] の[[ウェストミンスター・スクール]]に入学できた。間もなくラテン語やギリシャ語を習得し<ref name="JOCEFR"/>、ヘブライ語も学び、[[ユークリッド原論|ユークリッドの『原論』]]も習得した<ref name="JOCEFR"/>。また、そこで生涯の研究対象となる[[力学]]に出会った。
 
学校の通常の教育と平行して Busby が個人教授した生徒の1人だったと見られている。当時の文献には学校に「ほとんど出てこなかった」とあり、これは Busby が個人教授した生徒に共通している。Busby は熱心な王党派で、チャールズ1世、2世時代のイングランドで開花し始めた科学の精神をあらゆる手段で保持しようとした。これはプロテクトレート([[イングランド共和国]])時代の聖書に忠実な教育とは相反するものだった。Busby や選ばれた生徒達にとって英国国教会は科学的探究の精神が神の御業に沿うものとして支持する枠組みだった。例えば Busby は [[:en:Bishop of Bath and Wells|Bishop of Bath and Wells]] になった [[:en:George Hooper|George Hooper]] について「ウェストミンスター・スクールで教育を受けた中でも最高の学者、最良の紳士であり、完璧なビショップだ」と述べている。
 
=== オックスフォード時代 ===