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[[画像:March_2011_The_AizuMarch 2011 The Aizu-Wakamatsu_CastleWakamatsu Castle.jpg|thumb|200px|若松城]]
'''会津藩'''(あいづはん)は、[[陸奥国|陸奥]](後の[[岩代国|岩代]])[[会津郡]]を中心に現在の[[福島県]]西部と[[新潟県]]および[[栃木県]]の一部を治めた[[藩]]。藩庁は[[若松城]]([[会津若松市]])。最大版図は陸奥国[[北会津郡]]、[[耶麻郡]]、[[河沼郡]]、[[大沼郡]]及び[[越後国]][[東蒲原郡]]、[[下野国]][[塩谷郡]]の一部([[三依村]])。
 
=== 戦国時代 ===
[[画像:Gamo Ujisato.jpg|thumb|200px|会津の基礎を作った蒲生氏郷]]
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[会津]]地方は後の[[会津若松市|会津若松]]である'''黒川'''を本拠とする戦国大名の[[蘆名氏|蘆名家]]の領国であった。蘆名氏は会津守護を自称して勢威をふるったが、後継者争いや家臣団の権力闘争など内紛を繰り返して次第に衰微し、[[天正]]17年([[1589年]])6月5日に[[蘆名義広]]が[[摺上原の戦い]]で[[伊達政宗]]に大敗して<ref name="会津藩10">野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P10</ref> 義広は実家の[[常陸国|常陸]][[佐竹氏|佐竹家]]を頼って落ち延び、ここに蘆名家は滅亡して会津は政宗の支配下に入り<ref name="会津藩11">野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P11</ref>、政宗は黒川を新たな本拠とした。
 
天正18年([[1590年]])7月に[[小田原征伐]]で[[後北条氏|北条家]]を滅ぼした[[豊臣秀吉]]は、8月9日に会津黒川に入って[[奥州仕置]]を行なう。政宗は小田原征伐に参陣していたものの、前年の合戦が秀吉の出した[[惣無事令]]違反と見なされて会津地方及び周辺地域は政宗から没収された<ref name="会津藩12">野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P12</ref>。秀吉は仕置において検地や[[刀狩]]、寺社政策など諸事を定めて帰洛し<ref name="会津藩12"/>、会津には[[蒲生氏郷]]が42万石で入封することとなった<ref name="会津藩14">野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P14</ref>。後に検地と加増で氏郷は92万石<ref name="会津藩14"/> を領有することになる。
 
氏郷は[[織田信長]]にその非凡な才能を評価されて信長の次女[[冬姫]]を正室に迎えることを許され、信長没後は秀吉に従い[[伊勢国|伊勢]]松坂に12万石の所領を得ていた人物である<ref name="会津藩13">野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P13</ref>。秀吉も氏郷の才能を認め、[[東北地方|東北]]の伊達政宗や[[関東地方|関東]]の[[徳川家康]]を抑える枢要の地に大領を与えて入封させたのである<ref name="会津藩14"/>。
氏郷は黒川を'''若松'''と改め<ref group="注釈">氏郷が出世の端緒となった伊勢松ヶ島(松坂)以来、「松」は縁起の良い字として採用された。</ref>、故郷の[[近江国|近江]]日野から商人や職人を呼び寄せ<ref name="会津藩15">野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P15</ref>。、城下町の建設、武家屋敷を分離させた町割、黒川城を新たに7層の[[天守]]を持つ城を築いて現在の会津若松の基盤を築いた<ref name="会津藩15"/><ref group="注釈">会津[[若松城]]は鶴ヶ城ともいわれるが蒲生家の家紋は舞鶴紋であるため名づけられた。</ref>。
 
[[文禄]]4年([[1595年]])2月7日に氏郷は死去した<ref name="会津藩16">野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P16</ref>。嫡子の[[蒲生秀行 (侍従)|蒲生秀行]](数え13歳)が跡を継ぎ、家康の娘振姫([[正清院]]) を正室に娶わせた<ref name="会津藩17">野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P17</ref>。だが蒲生家中で重臣間の内紛が起こるようになり、[[慶長]]3年([[1598年]])1月、秀吉は家中騒動を理由にして秀行を[[宇都宮藩|宇都宮]]12万石へ減封した<ref name="会津藩17"/><ref name="宇都宮・高徳藩13">坂本『シリーズ藩物語、宇都宮藩・高徳藩』、P13。</ref><ref name="二本松藩12">糠澤『シリーズ藩物語、二本松藩』、P12</ref>。ただし秀行の母、すなわち[[織田信長]]の娘の[[冬姫]]が美しかったため、氏郷没後に秀吉が側室にしようとしたが冬姫が尼になって貞節を守ったことを不愉快に思った説<ref name="宇都宮・高徳会津1317">坂本『シリーズ藩物語、宇都宮藩・高徳藩』、P13。</ref><ref name="会津宇都宮・高徳1713"/>、秀行が家康の娘(三女の振姫([[正清院]]))を娶っていた親家康派のため[[石田三成]]が重臣間の諍いを口実に減封を実行したとする説<ref name="宇都宮・高徳藩13">坂本『シリーズ藩物語、宇都宮藩・高徳藩』、P13。</ref> もある。
 
=== 上杉家の時代 ===
[[画像:Uesugi_KagekatsuUesugi Kagekatsu.jpg|thumb|200px|上杉景勝]]
代わって[[越後国|越後]][[春日山城|春日山]]から[[上杉景勝]]が入封した<ref name="会津藩19">野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P19</ref>。領地は蒲生旧領と[[出羽国|出羽]]庄内に[[佐渡国|佐渡]]を加えた120万石であった<ref name="二本松藩13">糠澤『シリーズ藩物語、二本松藩』、P13</ref>。景勝は戦国時代に「軍神」の異名をとった[[上杉謙信]]の養子(実は甥、生母が謙信の姉[[仙桃院]])である<ref name="会津藩19"/>。しかし入封してから間もない8月18日に秀吉が死去し<ref name="会津藩19"/>、次の覇権を狙って徳川家康が台頭する。これに対抗しようと[[豊臣氏|豊臣家]][[五奉行]]の[[石田三成]]は[[上杉氏|上杉家]]の[[家老]]である[[直江兼続]]に接近し、直江は景勝と慶長4年([[1599年]])8月に会津に帰国すると、領内の山道を開き、武具や浪人を集め、28の支城を整備するという軍備増強に出た<ref name="会津藩20">野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P20</ref>。景勝・兼続主従は慶長5年([[1600年]])2月から若松城に代わる新たな城として、若松の北西およそ3キロの地点に位置する神指村に[[神指城]]の築城を開始した<ref name="会津藩21">野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P21</ref>。しかしこの軍備増強は隣国[[越後国|越後]]の[[堀秀治]]や[[出羽国|出羽]]の[[最上義光]]らにより家康に報告され、また上杉家中でも和平を唱える[[藤田信吉]]が出奔して[[江戸]]に落ち延びたため、家康は景勝に弁明を求める使者を出したが景勝は拒絶し、家康は諸大名を集めて[[会津征伐]]を開始した<ref name="会津藩21"/>。
 
[[ファイル:Matudaira Katamori.jpg|thumb|180px|松平容保]]
[[File:Flag of Aizu early Meiji Bakumatsu.svg|right|thumb|180px|会津藩の軍旗にある會文字]]
第8代容敬は養子藩主であったが、英明な藩主で[[親政]]して改革を行ない<ref name="会津藩153">野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P153</ref>、幕末における会津藩の基礎を築き上げている。容敬は[[嘉永]]5年([[1852年]])2月に死去し、容保が第9代藩主を継いで<ref name="会津藩153157"/><ref name="会津藩157153"/> 幕末の動乱期を迎えた。[[安政]]6年([[1859年]])、北方警備のため徳川幕府から[[根室]]・[[紋別]]を譲渡される。[[文久]]2年([[1862年]])閏8月に容保は[[京都守護職]]となり<ref name="会津藩159">野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P159</ref>、更に[[新撰組]]を麾下に置いて(新撰組は、その後会津戦争まで会津藩の隷下にあった)会津藩士ともども尊攘派[[志士]]の取り締まりや京都の治安維持を担った。そして[[禁門の変]]では、[[孝明天皇]]を奪取しようとした[[長州藩]]と戦い、一時は長州の勢いに圧倒されるも、薩摩藩の救援もあり御所を守り抜いた。後に容保は、会津藩を頼りとしている旨が記された「御[[宸翰]]<small>(ごしんかん)</small>」を孝明天皇より賜った<ref name="会津藩162">野口『シリーズ藩物語、会津藩』、P162</ref>。
 
しかし慶応2年12月(1867年1月)に[[孝明天皇]]が崩御すると事態は一変する。慶応3年10月14日(1867年新暦[[11月9日]])の[[大政奉還]]により江戸幕府が消滅。慶応3年12月9日(新暦:[[1868年]][[1月3日]])には[[王政復古 (日本)|王政復古の大号令]]が発令したことで新政府が誕生。薩摩藩の主導によって長州藩が復権すると、薩長と旧幕府との対立が激化し、慶応4年(1868年)に[[鳥羽・伏見の戦い]]([[戊辰戦争]])が勃発する。会津藩は、桑名藩や幕府軍とともに新政府軍と戦ったが敗北。この戦の結果、[[朝廷]]は会津藩を「[[朝敵]]」とした。その後の東北戦線において、会津藩は[[奥羽越列藩同盟]]の支援を受け、[[庄内藩]]と会庄同盟を結ぶなどして新政府軍に抵抗したが、会津若松城下での戦い([[会津戦争]])に敗北して降伏した。近年では、列藩同盟総裁中将の役職に松平容保が就いていたとする説もある<ref>会津若松市観光公社『えっ!?会津が首都??』。</ref>。なお、戊辰戦争の直前には、当時の[[プロイセン王国]]に対して[[蝦夷地]](北海道)の割譲を提案し、その見返りとして列強の武器を得ようとしていたことが分かっている。<ref>ただし普仏戦争の直前で余裕がなかったことから[[オットー・フォン・ビスマルク]]によって拒否されている</ref><ref>2011年2月7日の朝日新聞朝刊10面</ref>。
 
=== 戊辰戦争後 ===
容保の家系からは初代[[参議院議長]]の[[松平恒雄]]・[[雍仁親王妃勢津子]]父子、[[福島県知事一覧|福島県知事]]の[[松平勇雄]]や、現:徳川宗家当主[[徳川恒孝]]が出ている。
 
惣領家の家系は、容保の孫である松平保定が、[[農林中央金庫]]職員を務めた後に、[[靖国神社]]宮司に推薦されたが、「薩長が祀られ、賊軍とされた会津の戦死者が祀られていないのに、会津人として、お受けするわけには、まいりません」と、固辞し、2007年から、[[猪苗代湖]]近くにある藩祖の墓の近くに住む。その長男の松平保久は、[[NHKエンタープライズ]]のプロデューサーである<ref>『朝日新聞』2009年9月15日 夕刊 第一面</ref>。
 
== 斗南藩 ==
[[ファイル:Matsudaira_KataharuMatsudaira Kataharu.jpg|thumb|180px|松平容大]]
'''斗南藩'''(となみはん)は、[[明治]]2年([[1869年]])11月3日に松平容保の嫡男・容大に家名存続が許されて成立した、[[盛岡藩#七戸藩|七戸藩]]を挟む形で現青森県の東部にあった藩である。
 
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但し旧会津藩士4700名余が謹慎を解かれたのは翌年の明治3年([[1870年]])1月5日のことである。当初は三戸藩と称していたが、明治3年6月4日付の七戸藩宛書簡に「猶々藩名斗南藩と唱ヘ候間、以来ハ右藩名ニ而及御懸合候」とあり、名称を斗南藩と改めた。[[柴五郎]]によると「斗南」は漢詩の「北斗以南皆帝州」(北斗星より南はみな帝の治める州)からとったもので、この説が広く受け入れられているが、該当する古典漢詩が存在せず、会津藩士[[秋月悌次郎]]が慶応元年(1865年)に蝦夷へ左遷された際に詠んだ「唐太以南皆帝州」との類似が指摘されている。一方当時斗南藩の大属として藩政の中枢にいた竹村俊秀の『北下日記』には「「斗南」トハ外南部ノ謂ナリ」と記されており、当初「外南部」の略称に過ぎなかったものを大義名分に立って「北斗以南」の意義付けが行われたとも解釈される<ref>『野辺地町史 通説編第二巻』 48頁</ref>。また葛西富夫は、「南、すなわち[[明治政府|薩長政府]]と斗(闘)う」という意味が隠されているという口伝を紹介している<ref>[http://opac.ndl.go.jp/recordid/000001212250/jpn/ 葛西富夫著『斗南藩史』昭和46年8月斗南会津会]</ref>。同年4月18日、南部に移住する者の第一陣として倉沢平治右衛門<ref>[http://opac.ndl.go.jp/recordid/000001209430/jpn/ 『五戸町誌下巻』五戸町誌刊行委員会]</ref> の指揮のもと第一陣300名が八戸に上陸した。藩主となった松平容大は、藩士の冨田重光の懐に抱かれて駕籠に乗り、[[五戸]]に向かった。旧五戸代官所が最初の藩庁になり、後に現在の[[青森県]][[むつ市]]田名部の[[円通寺 (むつ市)|円通寺]]に移った。また[[北海道 (令制)|北海道]][[後志国]]の[[歌棄郡|歌棄]](うたすつ)・[[瀬棚郡|瀬棚]]・[[太櫓郡|太櫓]](ふとろ)及び[[胆振国]][[山越郡|山越]]の計4[[郡#日本の郡|郡]]も支配地となった。実際に入植したのは50戸あまり、220余人であった。明治3年閏10月までには旧会津藩士約2万人の内、4,332戸1万7,327人が斗南藩に移住したが、若松県内で帰農した者約2,000人を始めとし、残りは族籍を平民に移した。
 
斗南藩の表高は3万石、内高は3万5,000石であったが、藩領の多くは火山灰地質の厳寒不毛の地であり、実際の税収である収納高(現石)は7,380石に過ぎなかった<ref>『秩禄処分顛末略』 229頁</ref>。森林は豊富であったものの、隣藩のように林業を有効活用することが出来なかった。また南部藩時代から元々住んでいた約6万人の領民との軋轢も生じた。とりわけ下北半島に移住した旧会津藩士は苦しい生活を強いられ、その時の体験は[[柴五郎]]によって語られている。
 
斗南藩士の妻娘はさらに悲惨であった。病臥の家族を養うため、売春婦や妾として糊口をしのいだが、仲間から糾弾され「生活の糧に肉体は売っても、魂までは売りませぬ」と慟哭したという。-->
その後、斗南藩は明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で斗南県となり、その際斗南県少参事[[広沢安任|廣澤安任]]らによる明治政府への建言により、同年9月4日に[[弘前藩|弘前県]]・[[弘前藩#黒石藩|黒石県]]・[[盛岡藩#七戸藩|七戸県]]・[[盛岡藩#八戸藩|八戸県]]・[[松前藩#館藩|館県]]との合併を経て青森県に編入され斗南の地名は消滅した。また、二戸郡の一部は[[岩手県]]に編入された。青森県発足時点では、会津からの移住人員1万7,327人の内3,300人は既に他地域への出稼ぎで離散してしまっており、青森県内には1万4,000人余の斗南藩士卒族が残留していた。<ref>『会津若松史』 240頁</ref> その後も廃藩置県による旧藩主の上京により、移住してきた者の送籍・離散が相次ぎ、明治7年(1874年)末までには約1万人が会津に帰郷している。当地に留まった者では、明治5年(1872年)に広沢らが日本初の民間洋式牧場が開設したほか、入植先の戸長・町村長・吏員・教員となった者が多く、子孫からは、[[北村正哉]](元青森県知事)をはじめ衆議院議員、郡長・県会議員・市町村長や青森県内の各学校長などが出ている。容大は明治17年(1884年)[[子爵]]となり、[[華族]]に列した。
 
*藩主:[[松平容大]](まつだいら かたはる)〔従五位 知藩事〕
 
== 藩邸及び江戸での菩提寺 ==
[[文政]]年間の[[江戸藩邸]]は上屋敷は和田蔵御門内にあり、中屋敷は源助丁海手に、下屋敷は三田綱坂にあった。また江戸での菩提寺は下谷の[[臨済宗大徳寺派]]寺院の円満山[[広徳寺 (練馬区)|広徳寺]]<ref>現在は練馬区へ移転している</ref> で[[加賀藩]]や[[常陸国]][[谷田部藩]]も江戸での菩提寺として使用していた。
 
== 領地 ==
 
== 外部リンク ==
*[[国立公文書館]][http://jpimg.digital.archives.go.jp/kouseisai/index.html デジタル・ギャラリー]「[http://jpimg.digital.archives.go.jp/jpg_prg/jgmWeb?%TmpFileDisp%env=jpeg2k_images/ezu/kuniezu_tenpo/052_mutsu.env 天保国絵図 陸奥国(会津領)]」
 
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