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===治世===
即位とともにそれまで心に秘めていた父の復讐を企てる一方で、能力ある人物を積極的に登用し、老論派を牽制できるだけの親衛勢力を集めることに心を砕いた。特に王世孫時代より自らの警護にあたってきた[[洪国栄]]に全幅の信頼を置き、宮城の護衛にあたらせたが、洪国栄は正祖の信頼を背に、いわゆる{{仮リンク|[[勢道政治|ko|세도정치}}]]を行い、行き過ぎた権力独占に動揺した正祖は洪国栄に退任を勧告することとなった。洪国栄は自身の勢力を維持するために策略した孝懿王后毒殺計画(未遂)が発覚し、故郷へ追放となった。
 
父の死を招いた仇であり、与党でもあった老論派を極度に嫌悪した正祖は、封建的特権を弱体化し中央政府の地方統制力を高め、王権を強化するための政治・経済改革に着手した。英祖が生涯の課題とし、基本政策とした[[蕩平策]]を継承し、党争を避けるよう努力し、外戚勢力をはじめとする既得権勢力、特に老論勢力を排除、弱体化し、親政体制の構築に努力した。
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===改革の頓挫と死去===
正祖は、父が党争の犠牲になったこともあり、老論派の攻勢という難しい逆境を乗り切って王権を強化するためにさまざまな改革に着手したが、1800年6月、病が悪化して49歳で予期せぬ死にたおれ、彼が推進してきた改革の大部分は無に帰した。彼の死後、朝鮮では'''外戚家門の[[安東金氏]]が権力を握る{{仮リンク|[[勢道政治|ko|세도정치}}]]'''が展開していく。
==死後==
陵は荘献世子の隆陵の脇に立てられた、健陵である。死後、当初は正宗(チョンジョン、せいそう)の[[廟号]]を贈られたが、[[大韓帝国]]時代の1899年に父に荘祖の廟号が追尊された後、正宗の廟号も正祖に変えられ、正祖宣皇帝の諡号を追尊された。