「侯孝賢」の版間の差分

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| 画像コメント =
| 本名 =
| 出生地 = [[広東省]][[梅県台湾]]
| 死没地 =
| 国籍 = {{ROC}}
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| 出身地=
| 職業=
| 簡体字=侯孝贤
| 繁体字=侯孝賢
| ピン音=Hóu Xiàoxián
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== 来歴 ==
[[広東省]]梅県に生まれ、幼少の頃台湾に移住した。[[1972年]]国立芸術専科学院卒業後、脚本家、助監督を経て[[1980年]]に監督としてデビュー。主に[[1980年代]]を中心に脚本家の[[呉念真]]、[[朱天文]]らとともに『[[坊やの人形]]』、『[[童年往事 時の流れ]]』、『[[恋恋風塵]]』など多くの作品を発表した。[[エドワード・ヤン|楊徳昌(エドワード・ヤン]])などと並び、1980年代台湾映画界の新潮流である[[台湾ニューシネマ]](新電影)を担った代表的な監督の一人とされている。[[1989年]]に、終戦直後の[[基隆市|基隆]]・[[九フン|九份]]を舞台に[[二・二八事件]]を取り扱った『[[悲情城市]]』で[[ヴェネツィア国際映画祭]]グランプリを受賞、内外から注目を受けた。
 
『[[悲情城市]]』発表当時の台湾は、[[1987年]]の[[戒厳令]]解除からまだ間もない頃であり、[[二・二八事件]]そのものをタブー視する雰囲気も強かった。このため作品の発表自体が危ぶまれたものの、検閲を無事通過してノーカットで公開され、台湾社会で大きな反響を呼び、[[1989年]]の[[金馬奨]]最優秀監督賞・最優秀主演男優賞も受賞している。興行的にも従来外国映画に押されて低迷していた[[台湾映画]]の中では異例の大ヒットとなった。彼の作品の多くは日本でも公開されている。[[1995年]]には『[[好男好女]]』で[[金馬奨]]最優秀監督賞を受賞。