「サッポー」の版間の差分

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== 生涯 ==
サッポーは生前から詩人として著名であり、[[シチリア|シケリア島]]の[[シュラクサイ]]に亡命の時期に彫像が立てられたという。また[[プラトン]]はサッポーの詩を高く評価し、彼女を「十番目の[[ムーサ]]」とも呼んでいる。ムーサとはアポロンに仕える9柱の芸術の女神である。
 
歴史学([[パピルス]])上ではっきりしているのは、サッポーはレスボス島で生まれ、[[紀元前596年]]にシケリア島に亡命し、その後、[[レスボス島]]に帰国し戻っ事実ということのみである。
サッポーに関する文献は少なく、その生涯ははっきりしない。紀元前630年から紀元前612年の間のいずれかの年に生まれ、紀元前570年頃に亡くなったと考えられている。
サッポーの生涯は伝説の域を出ず、歴史学的に(パピルス文献学上)不明で、一説に拠ると「サッポー(の夫)(推定名「[[ケルキューラース]]」)は富裕な商人で、サッポーは夫とともに各地に頻に旅行した...」ともあるが、[[アルカイオス]]との友愛(残存詩片から確認)は存続し、仮令「男友」は多けれども、一度夫と「結婚」し、一女クレイスを生み、かなり早い時期に夫と死別、その後は[[寡婦]]を徹したとの説がその才媛の勝気な詩作からの類推に拠り有力視されている。また、サッポーはアルカイオスと異なり、政治には自身の詩作上において関わず、主観の方向は内的情熱に傾倒し、亡命の際以外、政治への関与は避けた。
 
「サッポーは、富裕な商人である"Kerkylas of Andros"(アンドロス島のケルキューラース)と結婚した」という伝承があった。しかし、ケルキューラースという名前は(現存する)サッポーの詩に全く登場しない上、19世紀半ばに歴史学者の{{仮リンク|William Mure|en|William Mure (scholar)}}が、"Kerkylas of Andros" は "Penis of Man" を意味する古代ギリシャ語とよく似た音になることを発見し指摘したため、この伝承は歴史的事実でなく、サッポーが同性愛と結びつけられることを踏まえた上での創作による民間伝説であると考えられている。
またサッポーはある種の[[学校]]を作り、若い娘たちを生徒として、文芸・音楽・舞踊を始めとする教育を行った。サッポーの詩のうちの一部は、その生徒のために書かれたものである。
 
サッポーは、彼女によって選ばれた若い娘しか入れないある種の[[学校]]をレスボス島に作った。また、様々な女性に対する愛の詩を多く残した。そのため、サッポーと同性愛を結びつける指摘は紀元前7世紀ごろから存在した。サッポーの学校では、文芸・音楽・舞踊を始めとする教育が行われたといわれるが、具体的な内容についてはよくわかっていない。サッポーの詩のうちの一部は、それら生徒のために書かれたものである。
<ref>注 - サッポーの最後については、遡れば[[メナンドロス (作家)|メナンドロス]](紀元前342-292)あたりから、渡し守に恋をしてルーカディアの崖から飛び降りたのだろう、などと語られてきたが、これは現代の学者からは、歴史的な事実ではないと見なされており、おそらく[[喜劇詩人]]がつくりだしたお話か、あるいはサッポーの非自伝的な詩を彼女自身の話として[[誤読]]してしまったことが原因で作り出されたお話だろうと推測されている(Joel Lidov, "Sappho, Herodotus and the Hetaira", in Classical Philology, July 2002, pp.203–237. pp.205-206)。</ref>
 
同じレスボス島出身の詩人[[アルカイオス]]とは詩の交換などで交遊があった。サッポー自身はアルカイオスと異なり、詩作において政治と関わることはせず、主観の方向は内的情熱に傾倒し、亡命の際以外、政治への関与は避けた。<ref>注 - サッポーの最後については、遡れば[[メナンドロス (作家)|メナンドロス]](紀元前342-292)あたりから、渡し守に恋をしてルーカディアの崖から飛び降りたのだろう、などと語られてきたが、これは現代の学者からは、歴史的な事実ではないと見なされており、おそらく[[喜劇詩人]]がつくりだしたお話か、あるいはサッポーの非自伝的な詩を彼女自身の話として[[誤読]]してしまったことが原因で作り出されたお話だろうと推測されている(Joel Lidov, "Sappho, Herodotus and the Hetaira", in Classical Philology, July 2002, pp.203–237. pp.205-206)。</ref>
 
==作風==
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恋愛詩人としてのサッポーは[[古代ローマ]]時代にもよく知られ、[[オウィディウス]]は抒情詩「愛について」の中で「いまやサッポーの名はあらゆる国々に知られている」(Ars Amatoria, 第28行)と述べている。
 
その一方で後世にはサッポーの作品は頽廃的であるとみなされ、さまざまな非難を浴びた。すでに[[古代ローマ時代]]にもサッポーは非難の的となっていたが、その後、[[キリスト教]]が興盛とともし、[[神学|キリスト教学]]が独善的な性格を強めてゆく従い、サッポーの詩は異教「反聖書頽廃の代名詞である」れ、多くの作品が失わた。非難の中にはサッポーを貶めるため、サッポーを[[同性愛者]]とするものもあった。そのためSapphic (サッポー風の)は女性同性愛者を、Sapphismは女性同性愛を示すのにも用いられいる。今日女性同性愛者を呼ぶ一般的な呼称である「レスビアン」もサッポーが[[キリボス島ト教]]出身勢力であることに由来し(ちなみにレスボス人は英語でlesbianと表記されるが、これはレズビアンと同じつづりである)、その誤解(曲解)から、同島の現代の一般名称は[[レスボス島|ミティリ東ロニ島マ帝国]]の名称支配がエジプト好ん替えられ及ぶに至っ呼ば、サッポーの作品の多くが失わている
 
当時、サッポーの詩はエジプトの[[アレクサンドリア図書館]]に所蔵されていた。これは、キリスト教信徒や[[東ローマ帝国]]皇帝が、無神論を含むギリシャ哲学や観察に基づく科学を「聖書を冒涜するもの」として非常に迫害したので、ギリシャの学者たちは、ギリシャが[[東ローマ帝国]]の支配下に入るとエジプトやペルシャへ亡命して学問を続けていたためである。しかし、そのエジプトも[[東ローマ帝国]]の支配下に入り、415年には、アレクサンドリアで、ギリシャ学問の学校の女性校長であり著名な数学者・哲学者・無神論者でもあった[[ヒュパティア]]がキリスト教徒によって裸にして吊され全身の肉を牡蠣の貝殻でそぎ落とされて惨殺されるという大虐殺事件が起こった。この頃に、[[アレクサンドリア図書館]]にあったサッポーの詩の多くもキリスト教徒によって破壊されたと考えられている。
 
前述のようにサッポーは非常に女性同性愛と結びつけられやすかったため、現代では、Sapphic (サッポー風の)は女性同性愛者を、Sapphismは女性同性愛を示すのに用いられる。また、女性同性愛者を呼ぶ一般的な呼称である「レスビアン」もサッポーが[[レスボス島]]出身であることに由来する。ちなみに、英語で「レスボス人」は"lesbian"と表記されるが、これは「レズビアン」の"lesbian"と同じつづりである。そのことから、同島の現代の一般名称は[[レスボス島|ミティリーニ島]]の名称に好んで替えられて呼ばれている。
 
== 日本語文献 ==