「深沢城」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
でここ (会話 | 投稿記録)
24行目:
 
== 歴史 ==
起源は深沢氏の城館であり、16世紀初頭に[[今川氏]]の[[今川氏親]]が国境と街道の守備のため深沢城として築城した<ref>本節は特記のない限り[[#ktbnk|前掲『日本の城がわかる事典』]]による。</ref>。1568年に[[武田信玄]]が一時占領するが1570年には[[北条氏康]]・[[北条氏政|氏政]]父子が38,000の軍勢で攻略し占拠、[[北条綱成]]を城主として配置した。しかし同年末には武田信玄が大軍を率いて包囲、結局翌年の1571年に北条綱成は深沢城を退去し、深沢城はふたたび武田家の支配下となった。この包囲戦において、武田方は力攻めを採用しなかった。まず降伏勧告や守備側のモチベーションを低下させる<ref>{{citation|和書 |author=川口素生 |title= 戦国時代なるほど事典 |publisher=PHP研究所 |year=2001 |isbn=9784569576466 |url=http://books.google.co.jp/books?id=vwAnu3OLuDgC&dq=%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%81%BB%E3%81%A9%E4%BA%8B%E5%85%B8&hl=ja&source=gbs_navlinks_s}},56節。</ref>[[矢文]]による揺さぶりを用いた。

また、多数深沢城攻めにおいては甲斐国内の[[黒川金山|黒川]]([[甲州市]]塩山)の金山衆]]用い動員した破壊工作が大きな成果をあげ、のちに金山衆へは各種税の免除といった報酬が与えられた<ref>{{citation|和書 |author=桜井英治 |title= 解説 |periodical=黒川金山史料 |publisher=[[塩山市]]教育委員会 |year=1991 |page=5}}</ref>。武田信玄による再征服後は改修され、1582年まで武田方の城として利用されたが、この年に武田氏が[[織田信長]]と[[徳川家康]]らによって滅亡すると城主であった[[駒井昌直]]は深沢城に火をかけてから退去した。
 
その後同地が徳川氏の所領になると深沢城は北条氏への備えとして再建された。しかし1590年に北条氏が滅亡するとその役目を終え、深沢城は破却された。遺構として残存しているものは武田氏の統治時代に形成された丸馬出や、その前面の三日月堀などのみで、これら以外の大部分は個人所有の農地や宅地となっている。1960年には[[静岡県指定文化財一覧|静岡県の史跡]]に指定された<ref name="fujidb" />。