「アイザイア・トーマス」の版間の差分

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No.1Center (会話 | 投稿記録)
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;トロント・ラプターズのフロント職
:引退直後の[[1994年]]から[[1998年]]にかけて、トーマスは拡張チームの[[トロント・ラプターズ]]で共同オーナーと副社長の役職に就いた。
:トーマスが就任してすぐドラフトが行われ、ラプターズは1順目(全体7位)で[[デイモン・スタウダマイアー]]を指名した。スタダマイアーはトーマスに似たタイプの[[ポイントガード]]で、俊敏で得点能力の高い選手だった。身長が178センチと非常に小柄だったため、スタッダマイアーを選んだことでトーマスを批判する者もいたが、このシーズンスタダマイアーは新人王に選ばれた。
:[[1996年]]には運動能力の高いセンター[[マーカス・キャンビー]]、[[1997年]]にはのちのオールスター選手[[トレイシー・マグレディ]]を指名するなど少しずつチーム作りを進めていたが、新しい経営陣と対立し[[1997年]]秋に運営から離れた。
;CBA
:ラプターズを離れて以後トーマスはNBC局でNBAの試合の解説の仕事を持っていたが、[[1998年]]に[[コンチネンタル・バスケットボール・アソシエーション]] (CBA) のオーナーに就任した。以降[[2000年]]までこの役職に就いていたが、CBAは2001年に経営問題から一時解散している。
;インディアナ・ペイサーズヘッドコーチ
:[[2000年]]から[[2003年]]にかけ、[[インディアナ・ペイサーズ]]のヘッドコーチを務めた。前任の[[ラリー・バード]]ヘッドコーチにより[[NBAファイナル]]に出場した翌シーズンにトーマスは同チームヘッドコーチに就任したが、[[リック・スミッツ]]は引退、[[マーク・ジャクソン]]など前シーズンまでの中心選手が数名チームを去っていたため、トーマスは困難な舵取りを要求されていた。最初の2000-01シーズンは41勝41敗と勝率5割、翌シーズンは42勝、2002-03シーズンは48勝まで勝ち数を伸ばしたが、プレイオフでは3年連続1回戦で敗退していた。トーマスは3年目のシーズンが終わり、かつての天敵[[ラリー・バード]]が球団社長してペイサーズに復帰して、しばらくしてからされた。
;ニューヨーク・ニックスのフロント職
:[[2004年]]に[[ニューヨーク・ニックス]]のバスケットボール部門の社長になり、チームの大規模な再編成に取りかかった。[[ステフォン・マーブリー]]や[[アンファニー・ハーダウェイ]]、[[ティム・トーマス (バスケットボール)|ティム・トーマス]]、[[クエンティン・リチャードソン]]、[[ジャマール・クロフォード]]、[[ジェイレン・ローズ ]]、[[エディ・カリー]]、[[スティーブ・フランシス]]、[[ザック・ランドルフ]]らをトレードや[[フリーエージェント (プロスポーツ)#NBA|FA]]を通じて獲得し、チームの若返りに着手した。一方で無計画な補強策は、慢性的な[[NBAサラリーキャップ|サラリーキャップ]]超過と貴重な[[NBAドラフト|ドラフト]]ピックを失う結果となった。
;ニューヨーク・ニックスのヘッドコーチ
:3年ぶりにNBAのヘッドコーチに就任。フロント職との兼任である。ニックスは再編期であると同時に長らく低迷しており、その手腕に期待が掛かった。
:しかし、[[2007-2008シーズンのNBA|2007-08シーズン]]にはマーブリーの無断離脱に対して明確な処罰を与えないなど、チームを統率できずにケミストリが崩壊。成績とサラリー総額が反比例する結果に終わった。
:[[2008年]]、シーズン終了直前に就任した前[[インディアナ・ペイサーズ]][[CEO]]の[[ドニー・ウォルシュ]]にチームプレジデントの座を奪われ、17日後にはヘッドコーチの地位も取り上げられた。その後、コンサルタントとしてニックスに残留も、選手たちとの接触を一切禁じられた。
;フロリダ国際大学(FIU)のヘッドコーチ
:2009年4月にFIU[[フロリダ国際大学]]のヘッドコーチに就任する。最初の一年の給料を学校に返還して、「私はお金の為にここに来たのではない」と宣言した。(大学のコーチ就任中ニックスがトーマスを新人発掘コンサルタントとして採用することを発表したが、その後ニックスと合意に達したばかりのコンサルタント契約を解消した。NBANBA関係者がドラフトにエントリーする前の選手たちとの接触を禁止しており、トーマスの立場はNBANBAから規則違反だと判断されていた)。3年のコーチ期間中の成績は不振で解
;解説者
:2012年12月 NBA.TVのスタジオ解説者に就任。また同時にNBA.COMのレギュラー寄稿家にも就任した。
;WNBAに進出
:2015年4月、[[WNBA]]の[[ニューヨーク・リバティ]]の球団社長に就任した。なお、リバティのヘッドコーチは、かつてのチームメイトで悪友でもある[[ビル・レインビア]]である。
 
==その他==