「柏戸利助」の版間の差分

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== 来歴 ==
[[1783年]]に[[陸奥国]][[津軽郡 (陸奥国)|津軽郡]](現:[[青森県]][[五所川原市]])で生まれる。土地相撲で三役を務めていたところを勧誘されて[[玉垣部屋]]に入門、[[1805年]]1月場所で[[初土俵]]を二段目付出として踏んだ。身体の柔軟さに課題が残るものの筋骨隆々とした体格を存分に発揮して、優勝相当成績16回と[[谷風梶之助 (2代)|谷風梶之助]]・[[雷電為右エ門]]に次ぐ成績を残したが、全勝が一度も無いのに加え、勝率もそれほど良いものでは無かった。それでも力感溢れる豪快な相撲で[[玉垣額之助 (4代)|玉垣額之助(4代)]]や[[鳴滝忠五郎]]と競い合い、文化から文政にかけての相撲黄金時代を築き上げた。この成果が認められ、[[1823年]]に[[五条家]]から玉垣額之助と共に横綱免許を授与されたが、[[吉田司家]]に遠慮して、[[横綱土俵入り]]を含めて辞退した。
 
よきライバル関係だった玉垣額之助が現役死(文政7年([[1824年]])[[8月5日 (旧暦)|8月5日]])すると、柏戸は大きなショックを受けたのか[[1825年]]1月場所では3敗7休と不本意な成績を残し、そのまま現役を引退した。引退前には[[二枚鑑札]]によって年寄・伊勢ノ海を襲名していた。弟子の[[鳥井崎与助]]が[[1830年]]春に急逝すると、後を追うかのように文政13年[[10月27日 (旧暦)|10月27日]]([[1830年]][[12月3日]])に48歳で死去した。