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'''藤原 良世'''(ふじわら の よしよ、[[弘仁]]14年<ref name="a" />([[823年]])- [[昌泰]]3年[[11月18日 (旧暦)|11月18日]]([[900年]][[12月12日]]))は、[[平安時代]]前期の[[公卿]]。[[藤原北家]]、[[左大臣]]・[[藤原冬嗣]]の八男。[[官位]]は[[従二位]]・[[左大臣]]、[[贈位|贈]][[従一位]]。致仕大臣と号した。母については弘仁9年9月に没した<ref>『日本紀略』</ref>[[刑部卿]][[大庭王]]の娘<ref>請田正幸は尚侍を務め、『続日本後紀』によれば天長10年11月に正二位に叙せられた継子女王であると推定する(請田[2014: 52-53])</ref>
 
== 経歴 ==
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[[嘉祥]]3年([[850年]])[[文徳天皇]]の[[即位]]に伴い[[蔵人]]に任ぜられ、[[衛門府|右衛門少尉]]次いで同大尉を兼ね、翌[[仁寿]]元年([[851年]])に[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]。こののち、文徳朝では兵衛佐・衛門佐を歴任する。兄・[[藤原良房]]が[[太政大臣]]に任ぜられた[[斉衡]]4年([[857年]])に従五位上に叙せられると、[[天安 (日本)|天安]]2年([[858年]])[[清和天皇]]の即位に前後して[[正五位|正五位下]]・[[近衛府|右近衛少将]]、[[貞観 (日本)|貞観]]2年([[860年]])[[従四位|従四位下]]、貞観6年([[864年]])従四位上・[[蔵人頭]]、貞観10年([[868年]])[[正四位|正四位下]]と以降は順調に昇進し、貞観12年([[870年]])[[参議]]に任ぜられ[[公卿]]に列した。またこの間の貞観2年(860年)には姉の[[皇太后]]・[[藤原順子]]の[[皇太后宮大夫|大夫]]に任ぜられた。
 
良世が五位から公卿に昇進するまでの官人としての立身時期は、ちょうど兄・藤原良房が権勢を得ていた時期と重なっており、これと争うことなく従ったことで<ref>[[文徳天皇]]の側近として[[蔵人]]・[[右近衛中将]]を歴任し、次期皇位継承を巡って良房と天皇の対立が緊迫化した天安元年([[857年]])に突如越前権守に左遷されて中央政界から排除された異母兄・[[藤原良仁]](冬嗣七男)とは対照的である(栗原[2008: 159-164])</ref><ref>請田正幸は『公卿補任』の良房に関する記述形式や良世が『興福寺縁起』において良房が両親の為に始めた興福寺の長講会が自分が引き継がなければならないと述べていることから、藤原良房は良世と同母兄弟(大庭王の娘の所生)とする説を唱えている(請田[2014: 47-53])。請田説によれば、良世は清和天皇に近い外戚の1人ということになる。</ref>、順調な昇進を果たしている。
 
貞観14年([[872年]])兄の良房が[[崩御#薨去|薨去]]するが、同年[[従三位]]・[[中納言]]、貞観19年([[877年]])[[正三位]]、[[元慶]]6年([[882年]])[[大納言]]、[[寛平]]3年([[891年]])[[右大臣]]、寛平5年([[893年]])[[従二位]]と、清和・[[陽成天皇|陽成]]・[[光孝天皇|光孝]]・[[宇多天皇|宇多]]朝にかけても順調に昇進を続けた。寛平7年([[895年]])[[左大臣]]・[[源融]]の薨去により[[太政官]]の首班を占め、翌寛平8年([[896年]])には左大臣に任ぜられるが、同年[[致仕]]し致仕大臣と呼ばれた。
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== 参考文献 ==
*栗原弘「藤原冬嗣家族について」(初出:『阪南論集 人文・自然科学編』第27巻4号、所収:栗原『平安前期の家族と親族』(校倉書房、2008年) ISBN 978-4-7517-3940-2 第二部第二章)
*請田正幸「良房の母」(続日本紀研究会編『続日本紀と古代社会』(塙書房、2014年) ISBN 978-4-8273-1271-3)
 
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