「松本幸四郎 (7代目)」の版間の差分

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| 兄弟 =
| 妻 =
| 子 = [[市川團十郎 (11代目)|十一代目市川團十郎]]<br/>[[松本白鸚 (初代)|八代目松本幸四郎(白鸚)]]<br/>[[尾上松緑 (2代目)|二代目尾上松緑]]<br/>[[中村雀右衛門 (4代目)|四代目中村雀右衛門]](女婿)
| 当たり役 = 『[[勧進帳]]』の弁慶<br/>『大森彦七』<br/>『[[菅原伝授手習鑑]](車引)』の梅王<br/>ほか多数
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[[File:Koshiro's Roei no Yume.JPG|thumb|200px|露営の夢(1910年)]]
[[1889年]](明治22年)3月、[[新富座]]で四代目[[市川染五郎]]を襲名。[[1903年]](明治36年)5月には[[歌舞伎座]]で八代目[[市川高麗蔵]]を襲名。このころから[[團菊]]を継ぐ次世代の有望株として注目を集めるようになる。

[[1911年]](明治44年)11月、[[帝国劇場]](帝劇)で七代目[[松本幸四郎]]を襲名。その、明治末から昭和初めまで[[帝国副座長として同劇場]]を拠点に活躍、新作翻訳劇にも挑戦する。1930年(昭和5年)、帝劇が[[松竹]]傘下になったことに伴って、同社と専属契約を結ぶ。
 
晩年になっても積極的に舞台に出演し、[[1946年]](昭和21年)には生涯最後の『[[勧進帳]]』の[[武蔵坊弁慶|弁慶]]を、また翌年の[[東京劇場]]、翌々年の[[大阪歌舞伎座]]では『[[仮名手本忠臣蔵]]』の通し上演も勤め上げた。1948年(昭和23年)12月[[新橋演舞場]]での[[大岡越前]]役が最後の舞台となった。
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恵まれた容貌、堂々たる口跡に裏打ちされた風格のある舞台で、時代物や荒事に本領を発揮した。また舞踊にも秀で、[[藤間流]]の家元として活躍した。
 
当たり役の筆頭に挙げられるのが『[[勧進帳]]』の[[武蔵坊弁慶|弁慶]]で、師匠・團十郎以後の第一人者として、生涯に約1600回演じた。殊に[[1943年]](昭和18年)歌舞伎座にて、[[尾上菊五郎 (6代目)|六代目尾上菊五郎]]の[[源義経|義経]]、[[市村羽左衛門 (15代目)|十五代目市村羽左衛門]]の[[富樫泰家|富樫]]と共演した舞台は映画に残され、今日でも往時の舞台ぶりを知る貴重な記録となっている。辛口の劇評で知られた[[岡鬼太郎]]でさえをして「風貌音声の堂々たる、先づ当代での随一。誰がどの件で立ち向はうと、此の金城鉄壁には矢も立たぬ」(「演芸画報」昭和7年12月号)<ref>松井俊諭著『歌舞伎 家の藝』(演劇出版社)より</ref>と評したほど、近代随一の弁慶役者であった。
 
そのほか他には『[[大森彦七]]』や『[[矢の根]]』の曾我五郎、『暫』の鎌倉権五郎、『[[菅原伝授手習鑑]]・車引』の梅王『[[一谷嫩軍記]]』や『[[源平魁躑躅]]』(扇屋熊谷)の[[熊谷直実|熊谷次郎直実]]、『博多小女郎波枕』(毛剃)の毛剃、『暫』の鎌倉権五郎、『[[矢の根]]』の曾我五郎、舞踊で『[[積恋雪関扉]]』(関の扉)の関守関兵衛実は[[大伴黒主]]、『茨木』の[[渡辺綱]]<!--、『[[素襖落]]-->などが当り役である。
 
一方で、音楽劇や翻訳劇を上演するという、進歩的な側面もあった。[[1905年]](明治38年)には[[北村季晴]]の叙事唱歌『露営の夢』を舞台上演。後には[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の『[[オセロ (シェイクスピア)|オセロ]]』や『[[ジュリアス・シーザー (シェイクスピア)|ジュリアス・シーザー]]』も演じている。
 
こうした、歌舞伎と西洋(洋物)の演劇に取り組む姿勢は、次男の[[松本白鸚 (初代)|八代目松本幸四郎 (初代白鸚)]]や三男の[[尾上松緑 (2代目)|二代目尾上松緑]]、さらにその後裔たちにも受け継がれている。
 
== 人物 ==
温厚な人格で、[[片岡仁左衛門 (13代目)|十三代目片岡仁左衛門]]の自伝『仁左衛門楽我記』には「どんな役でも持って来られたら私は快く出る。人は高麗屋はなんだってあんな役にまで出るのだろう? あんな役はことわればいいとごひいき筋でも言ってくださるが、出てくださいと言われることは、仲間にきらわれていない証拠ですよ。私の演し物の幕に幸四郎はださないように、と言われるようになっちゃおしまいだ。私のような者でも出て欲しいと頼まれることは、ありがたいことだと思うの」 と、その性格温厚な人柄を表す言葉が記されている。
 
非常に生真面目で辛抱強い人物でもあった。
非常に生真面目な人物でもあった。[[1949年]](昭和24年)2月の大阪歌舞伎座『[[助六]]』で[[市川壽海 (3代目)|三代目市川壽海]]が[[助六]]を勤めるにあたり、七代目は以前から[[助六#出端の唄|出端の唄]]の振りの稽古をつけに行くことを約束していた。しかしそのとき体調を崩して寝込んでいたので、名代として門弟振付師の藤間良輔が出向くことになり、師匠に伺いをたてに行ったが、「聞いて分かるものじゃない、なまじっかなものを伝えては済まないから」と、わざわざ床から起き上がって下駄を履き、振りの要を幾度も見せた。その翌日に死去した。
この翌日、世を去った。
 
== 家族 ==
長男[[市川團十郎 (11代目)|十一代目市川團十郎]]、次男は[[松本白鸚 (初代)|八代目松本幸四郎 (初代白鸚)]]、三男は[[尾上松緑 (2代目)|二代目尾上松緑]]という大立役、また女婿の[[中村雀右衛門 (4代目)|四代目中村雀右衛門]]は立女形で、いずれも[[戦後]]の歌舞伎を支える名優となった。
 
さらに十一代目團十郎の長男[[市川團十郎 (12代目)|十二代目團十郎]]、八代目幸四郎の長男[[松本幸四郎 (9代目)|九代目幸四郎]]次男[[中村吉右衛門 (2代目)|二代目中村吉右衛門]]、二代目松緑の長男[[尾上辰之助 (初代)|初代尾上辰之助]](没後、三代目松緑を追贈)、四代目雀右衛門の長男[[大谷友右衛門 (8代目)|八代目大谷友右衛門]]次男[[中村芝雀 (7代目)|七代目中村芝雀]]多くの役者が七代目幸四郎につながる。これら役者たちの子や孫まで含めると、今日の歌舞伎に与えた影響は計り知れない。
 
== 脚注・出典 ==