「中華民国憲法」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
二林史夫 (会話 | 投稿記録)
全般的な加筆
二林史夫 (会話 | 投稿記録)
m 沿革<3>の章を追加
9行目:
[[1928年]]に蒋介石による北伐が終わり、南京に首都がおかれると、「訓政綱領」が定められ、[[1931年]]には国民大会を開催し「中華民国訓政時期約法」が成立した<ref name="goto89">後藤(2009年)89ページ</ref>。[[1936年]]5月5日国民政府は「中華民国の憲法草案(55草案)」を公布した<ref name="goto89"/>。そこには、孫文の理論である五権分立が採用されていた<ref name="goto89"/>。すなわち、国家権力を行政、立法、司法の三権のほかに、考試、監察を加えて五権とし、国民大会に対して責任を負うというものである<ref name="goto89"/>。しかし、[[日中戦争]]が激化したため、憲法制定にはいたらなかった<ref name="goto89"/>。 [[1946年]]1月10日、政治協商会議が開催され、五権分立、基本的人権、総統制の採用などを内容とする「修憲十ニ原則」が示された。続く3月16日に国民党ニ中全会において「対修改憲草原則之決議」が採択され、国民大会において12月25日「中華民国憲法」が制定された<ref name="goto90">後藤(2009年)90ページ</ref>。この「中華民国憲法」は、[[1947年]]1月1日に公布、同年12月25日に施行された<ref name="goto90"/>。
 
== 沿革<2>戒厳令と「動員戡乱時期臨時款」 ==
憲法は制定されたが、中国大陸においては、共産党と国民党の主導権争いが内乱に発展し、国民党は共産党勢力の制圧を目指して軍事活動を展開した<ref name="goto90"/>。しかし、憲法を基本法としていたのでは共産党勢力の制圧が不十分であるとして、平時の国家秩序である憲法を修正して戦時体制をとる必要があるとされた。[[1948年]]5月10日、中華民国憲法の付属条項として、[[動員戡乱時期臨時條款|動員戡乱時期臨時条款]]が公布された<ref name="goto90"/>。2年間を限度として、事実上憲法の諸制度を停止するというものである<ref name="goto90"/>。ここで、「動員」とは国家総動員のことであり、戡乱(かんらん)とは反共産主義のことである<ref name="goto90"/>。この主要な内容は、動員戡乱時においては、総統は国家や人民が緊急の危難に遭遇することを避けるため、または財政経済上の重大な変動に対応するために、憲法上必要とされる手続きに拘束されることなく行政院の決議を経て緊急処分をなすことができるというものである<ref name="goto90"/>。中国大陸での戦線が共産党の優位に進展し、1949年1月23日には北京が共産党の支配下に置かれるようになると、国民政府の台湾撤退は焦眉の急となり、同年5月19日台湾全土に「戒厳令」を布告した<ref name="goto91">後藤(2009年)91ページ</ref>。この「戒厳令」は、1950年3月14日立法院の追認を受け、合法化されていった<ref name="goto91"/>。蒋介石の率いる国民党総裁は、1949年7月24日、[[アモイ]]から台湾に逃れてきた<ref name="goto92">後藤(2009年)92ページ</ref>。この国民党政府の移駐に伴い、中華民国の法体制が台湾に持ち込まれ、日本統治時代の法体制をほぼ完全に取り換えた<ref name="endo44">遠藤(2014年)44ページ</ref><ref name="jian77">簡(2009年)77ページ</ref>。
 
== 沿革<3>「動員戡乱時期臨時条款」の廃止と憲法修正 ==
[[1991年]]4月30日、李登輝総裁は「動員戡乱時期臨時条款」の廃止を宣言し、翌5月1日より廃止した。これに合わせて同日「中華民国憲法増修条文」10条を公布した<ref name="goto109">後藤(2009年)109ページ</ref>。
 
== 出典 ==