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'''井上 之房'''(いのうえ ゆきふさ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[武将]]。[[黒田氏]]の家臣で、[[黒田二十四騎]]、[[黒田八虎]]の一人。[[井上之正]](ゆきまさ)の子。主な通称は'''九郎右衛門'''(くろうえもん)。初名は'''政国'''(まさくに)。
 
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初め、[[黒田職隆]]に小姓として仕える。[[天正]]6年([[1578年]])、[[黒田孝高]]が[[荒木村重]]により[[有岡城]]に幽閉された際には、[[栗山利安]]・[[母里友信]]と共に有岡城下に潜伏し、孝高の安否を探っている。天正13年([[1585年]])に職隆が没した後は、その遺命により孝高に重臣として召し抱えられた。天正15年([[1587年]])の[[九州平定]]後の国人一揆では[[黒田長政]]と共に姫隈城攻めに当たった。同年、長政が[[城井鎮房]]を攻めようとした際にはそれを諌めたが、長政はそれを聞かずに出撃し、仕方なく之房も従ったものの敗北している。
 
天正16年([[1588年]])、60006,000石を与えられる。[[文禄]]元年([[1592年]])に始まる[[文禄・慶長の役]]では朝鮮に渡り、参戦。[[慶長]]3年([[1598年]])に帰国後、栗山利安・母里友信と共に[[宇佐神宮]]の造営に当たる。慶長5年([[1600年]])[[関ヶ原の戦い]]の際には孝高と共に[[豊前国]]中津におり、[[石垣原の戦い]]で[[大友氏]]の家臣・[[吉弘統幸]]を討つ武功を挙げた。戦後、主君・長政の[[筑前国]]への移封の際に[[豊前]][[小倉]]の近くに[[黒崎城]]を築き、1万60006,000石を領し大名格待遇を得る。黒崎城は[[筑前六端城]]の一つ。
 
慶長12年([[1607年]])、長政の使いとして[[徳川秀忠]]・[[徳川家光|家光]]に拝謁して馬を賜った後、「周防守」を称する。慶長19年([[1614年]])の[[大坂の陣|大坂冬の陣]]では長政の嫡男[[黒田忠之]]に従って従軍。[[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])、[[一国一城令]]の発令に伴い黒崎城を破却。元和9年([[1623年]])、1万30003,000石を孫の正友に譲り、隠居・剃髪して半斎道柏と名乗った。
 
[[寛永]]10年([[1633年]])、[[福岡藩]]の[[お家騒動]]である[[福岡藩#黒田騒動|黒田騒動]]が起こると[[栗山利章]]と結んで[[倉八正俊]]を排斥した。
 
寛永11年([[1634年]])10月22日死去。享年81。
 
なお、息子[[井上庸名]]は黒田長政の長女、菊と婚姻。二代将軍[[徳川秀忠]]の六千石[[旗本]]となった。[[黒田騒動]]の後、井上家は藩から追放されたが、庸名は二代将軍・徳川秀忠に仕えて6,000石取の[[旗本]]となった。之房の実弟の家系は後に福岡藩士に召抱えられ、筑前に戻っている。{{要出典範囲|いわゆる「井上くずれ」とは、黒田騒動に於ける追放とは関係なく井上之房の子孫が後に嫡男が生まれず途絶してしまった事を言う|date=2015年6月}}
 
== 逸話 ==
之房が石垣原の戦いで討ち取った[[吉弘統幸]]は、大友氏の[[改易]]後[[立花宗茂]]に仕官するまでの間、之房の元に身を寄せていた。統幸は[[豊臣秀吉]]から「無双の槍使い」と賞讃されて一対の朱柄の槍を許されていた豪傑であったが、敵将・小田九朗左衛門など30~40人を自ら討ち取るも重傷を負い、友の之房に功を挙げさせるため、自刃して討たれたといわれる。
 
== 登場作品 ==