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除隊後の[[1943年]]、[[鮎川義介]]の日産コンツェルンが資金的にバックアップしていた日本電子工業の創立、戦後の[[経済同友会]]創設に参画。戦時中から仕事の付き合いがあった桜田が鹿内を非常に買い、関東経営者協会の発足で、桜田委員長=鹿内信隆副委員長という労務問題でのコンビを成立させ、これが[[1948年]]4月の[[日本経済団体連合会|日本経営者団体連盟(日経連)]]設立に至る<ref name="いま明かす戦後秘史上"/><ref name="鹿内信隆は語る">鹿内信隆『鹿内信隆は語る―理想なきものに創造性は生まれぬ』[[講談社]]、1986年、18-25頁</ref><ref name="カリスマの秘密">鹿内信隆『指導者 カリスマの秘密』講談社、1985年、256-286頁</ref><ref>[[文藝春秋]]、1969年4月号、188-201頁</ref>。桜田は日本電子工業の常務だった鹿内を引き抜いて、日経連の初代専務理事として迎えて、桜田総理事=鹿内専務理事として再びコンビを組み、戦後の約10年を[[日本共産党]]に指導されて各地で起ったラジカルな[[労働争議]]を闘った<ref name="鹿内信隆は語る"/><ref name="カリスマの秘密"/>。また桜田の師匠・[[宮島清次郎]]が若手財界人を束ねて帝大同期の[[吉田茂]]政権を支援したことから、桜田を通じて政財界人脈を拡げることになる<ref name="鹿内信隆は語る"/><ref name="カリスマの秘密"/><ref>阪口昭『寡黙の巨星』[[日本経済新聞社]]、1985年、154-159頁</ref>。戦後の混乱期に「[[財界四天王]]」らと共に「財界主流派」の中心メンバーとして、戦後の日本経済の基盤作りを行い、政財界の舞台裏を取り仕切った人物の一人である<ref>[[福本邦雄]]『表舞台 裏舞台―福本邦雄回顧録 』講談社、2007年、33、34、235頁<br />[[田原総一朗]]『戦後財界戦国史 総理を操った男たち』講談社、1986年、9-23、56-75頁</ref>。鹿内自身「私のいちばん記録に残すべき時代は日経連時代なんです」と述べている<ref name="鹿内信隆は語る"/>。
 
[[1954年]]の[[ニッポン放送]]設立に加わり、[[1957年]][[文化放送]]にいた水野と協力して[[フジテレビジョン|フジテレビ]]を開局させた。[[1961年]]、ニッポン放送社長に就任する
 
[[1963年]]、同局社長。フジテレビ社長時代の1968年、[[産業経済新聞社|産経新聞社]]社長に就任した。1969年、[[箱根 彫刻の森美術館]]館長・フジサンケイグループ会議初代議長を務め、フジサンケイグループ内で絶大な権力を持った。[[1974年]]、郵政官僚出身の[[浅野賢澄]]に社長職を譲り、自らは会長に就任。また、ニッポン放送社長を同郷の後輩である[[石田達郎]]に譲った(石田の後任は鹿内の大学の後輩である[[羽佐間重彰]]で、後にフジテレビ社長も務めた)。
 
[[1982年]]、郵政官僚出身の[[浅野賢澄]]にフジテレビ会長のポストを譲った。[[1984年]]フジサンケイグループ最高顧問の座に就いた。しかし[[1988年]]、長男・[[鹿内春雄|春雄]]の死去を受け、再びグループ会議議長の座に就任した。1990年10月28日、死去した。78歳でその生涯を閉じた
 
== エピソード ==